子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

レコード会社で働く佳乃は出産後、時短勤務で復職したが家事と仕事で追いつめられ、ついに離婚を切り出してしまった。そんなある日、あかりが高熱をだしてしまった。



かつて、こんなに胸騒ぎを覚えたことがあっただろうか。

子どもが苦しんでいる姿をみるのが、これほど辛いとは、佳乃にとっては想像以上のことだった。

タクシーが総合病院に着くと運転手に千円札を2枚渡し、「お釣りはいりません」と言って急いでタクシーを降りた。

受付を済ませ、早く名前が呼ばれる事を祈るように待ちながら、あかりをぎゅっと抱きしめる。

病院に漂う独特のにおいが、佳乃の心をさらに乱す。

―ごめんね、ごめんね……。

タクシーに乗っていた時からずっと、佳乃は心の中で謝り続けていた。

病院に到着して約10分後、ようやく名前を呼ばれて診察が始まった。40代と思われる女性の医師に優しい眼差しを向けられ、佳乃の心は少しだけ落ち着いた。

「紹介状は拝見しました。たしかに、肺に合併症が疑われますので念のためきちんと検査しておきましょう。数日入院してもらえますか?」

「入院……」

佳乃は反射的にその言葉を繰り返した。

目まぐるしい状況の変化についていくのがやっとだった。


駆けつけた紀之に、思うこと。

「お着替えやパジャマなどをご用意いただけますか?」

診察室をでると、看護師が入院に必要なものを説明してくれた。佳乃は、すべてを聞き逃さないように必死だった。

看護師の説明が終わると、すぐさま紀之に電話した。

18時過ぎ。紀之はまだおそらく会社にいる時間だ。数回の呼び出し音の後「もしもし」と紀之の声が聞こえた。

あかりが入院することになったと伝えると、最初は驚いたが紀之はすぐに落ち着きを取り戻し、焦ることなく言うのだった。

「わかった。一旦家に寄って必要な物を持って行くから、佳乃はしっかりあかりのそばにいてやるんだぞ。すぐに行くから」

それはいつも以上に低く、落ち着いた声だった。取り乱すことなく必要なことを簡潔に聞きだす紀之の対応は、何よりも佳乃を落ち着かせた。

―そうよね、しっかりしなくちゃ……!

電話を終えると、急いであかりのもとへ向かった。



夫を見直した、小さな出来事


「佳乃、お待たせ」

ベッドで眠るあかりを見ていると、病室の入り口から小さく呼ばれた。

声の方に目をやると、紀之が両手に荷物を持って立っていた。

佳乃は、あかりを起こさないようそっと椅子から立ち上がり、紀之のもとに駆け寄った。

「ごめんね、私のせいなの。私が、もっと早く気付かなきゃいけなかったのに……」

言いながら鼻の奥が熱くなり、涙が溢れそうになる。

「佳乃のせいじゃないよ。俺だって父親なんだから同じだけ責任はある。だから自分ばっかり責めるなよ。それに、念のための入院なんだろう?大丈夫だよ」

そう言ってあかりの顔を覗き込む紀之の存在は、何よりも心強かった。

「あ、着替えとか必要そうなものは一通り持ってきたけど、大丈夫かな?」

紀之が両手に持っていた荷物を降ろして、中身をベッドの上に並べ始めた。

「あ、これ。これも……」

そこには、あかりのお気に入りのタオルとおもちゃがきちんと入っていた。

佳乃がいつも持ち歩いている、パステルカラーの動物がプリントされたタオルの他にも、あかりのお気に入りのタオルが2枚ある。

そのタオルのことを紀之に話したことはないのに、2枚とも持って来てくれたところに、紀之の確かな愛情を感じられた。

―紀之も、ちゃんと知ってるんだ……。

一緒に親になったはずなのに、自分ばかりが女から母になり、紀之にはいつまで経っても父親の自覚が芽生えていない―。

そんな憤りを何度も感じていたが、実際は紀之も彼なりに、父親としての自覚を持っていたことに、今さらながら気づいた。


限界を迎えた佳乃は、あることを口走る。

「そろそろ面会時間終了です」

20時前、優しそうな看護師に声を掛けられ、佳乃と紀之は後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。

緊急を要する病気ではないため、親が一緒に泊まることはできなかった。

「明日、6時にまた来ましょう」

佳乃が言うと、紀之は「もちろん」と言って、肩を並べて歩いた。

「腹へってない?」

「そいえば、お腹すいてるかも」

「今から作るのも大変だから、何か食べて帰ろう」

紀之の提案に、佳乃は「そうね」と小さく答えた。

2人が入ったのは、目黒駅近くの『食楽 太太太』。人気店だが、タイミングがよかったらしく、予約なしでも入ることができた。



カウンターに並んで座ると、紀之は佳乃を励ますように沢山の言葉を並べた。

「大丈夫そうだから良かったな」、「念のための検査入院だから、そう心配する必要はないよ」「いろいろ対応してくれて、ありがとうな」と、感謝の言葉まで言われた。

だが、佳乃はどんな言葉を並べられても、あかりが無事に退院するまでは笑えそうもなかった。


自分が仕事を優先させたせいだ。
あかりに何かあったら、自分のせいだ。


自分自身を責める言葉が、とめどなく溢れてくる。

「私、仕事辞めようかな……」

今回の件はもちろん、まだ決着がついていない紀之との離婚話がでたのも、自分が仕事を続けているせいではないか。

無理に仕事をするせいで、あかりや紀之に負担を強いている。

仕事を辞めれば、もっと余裕を持ってあかりや紀之と接することができる。家や会社でイライラする必要もなくなる。

仕事を辞めれば収入は減るが、紀之の稼ぎだけでもそれなりの暮らしはできる。子育てがひと段落したら、また何かしらの仕事を探せばいい―。

辞める理由は、どんどん浮かんできた。
反対に、辞めない理由が見つからない。

仕事を続けることが、ただのわがままにさえ佳乃には思えてきた。

「佳乃、本気で言ってる?」

「うん、本気。やっぱり、いくら時短勤務と言っても子どもを産んでも正社員で働くのは無理なのよ。そんなことができるのは、一部のパワフルな女性だけ。うちの会社を見ればわかるでしょう?出産後に復職しても、大抵2〜3年で辞めていくもの。私もその一人になるだけよ」

淡々と言うと、紀之が応戦するように口を開いた。

「俺は、それは反対だな。別にお金のためとかじゃなくて、純粋に佳乃には仕事を続けてほしい。やっぱり、責任ある仕事をしてる女性って素敵だと思うし、仕事から得られる喜びや学びも、人生にとって大切だと思うんだ」

いつになく真面目な言葉を言われて、佳乃は紀之の顔をじっと見つめた。

「どうしても辞めたいなら話は別だけど、子育てのために辞めようって考えてるなら、決断する前に試したいことがあるな」

そう言った紀之の顔は、なぜか少し楽しそうだった。

佳乃は訝しみながら、話の続きを待つことにした。


▶NEXT:7月27日 木曜配信予定
最終回:紀之の提案を受け、佳乃が決断したこととは?