東京の女たちは今日も霊長類のごとく、笑顔の裏でマウンティングを繰り広げている。

だが、一部の女は気づき始めた。 マウンティングは、虚像でしかないことを。

マウンティング世界の向こう側を、覗いてみたくはないだろうか。

大手出版社に勤める麻耶(26歳)は、仕事にも本気になれず恋愛も上手くいかない。華やかな世界に憧れるあまり、商社マンの元彼・潤からヨリを戻そうと提案されても、なかなか踏み切れずにいた。

最終回の今週は、34歳になった麻耶が一体どのような生活を送っているのかをお届けする。



結局世間の流れには、逆らえなかった


「痛っ。」

慣れないミシンを諦め、針と糸で縫い物を仕上げようとした麻耶は思わず針で指を刺してしまった。左手人差し指の腹に、真っ赤な血が滲む。

麻耶は、荻窪の実家のリビングで独り、可愛らしいプリンセスが描かれたピンクの布を、どうにかカバンの形にしようと奮闘していた。

絵本や上履きなどを入れる為のこのカバンは、この春幼稚園に入園する1人娘の入園グッズの一つだ。

出産を機に仕事を辞めた麻耶。娘を通わせている私立の幼稚園は、基本的にこうした小物は親が作るものと決められていて、市販品を購入すれば、「愛情がない」と見られてしまうという。そういった母親界の暗黙のルールは、全て姉のナオミが教えてくれた。

「なんでネットで注文しちゃいけないんだろう」

そんな風に独り文句を言っていると、スマホの着信画面に「パパ」と表示された。


麻耶が結婚した相手は?

早くあのゲームから「一抜けた」をしたかった。


「もしもしパパ?今どこ?」

作業が煮詰まっていた麻耶は一旦手を止め、キッチンへと向かいアイスコーヒーを取り出しながら話を続ける。酔っているのか、電話口の声は賑やかでよく聞き取れない。

「2次会?行ってもいいけど、あんまり遅くならないでね、潤。」

やや乱暴に氷を入れて電話を切ると、アイスコーヒーを一気に飲み干す。

潤と結婚して4年目。彼は、仕事柄飲み会が多く夜も午前様になることが多いため、麻耶と娘はこうして実家で過ごすことが多いのだ。

この荻窪の実家から車で5分と離れていない場所にマンションを借りたのが、3年前。

入籍してすぐ妊娠が発覚した麻耶が、子育てをするなら実家の近くがいい、と近隣で家を探したのだ。

新婚生活が始まるのならホームパーティで招かれるような高級感溢れるマンションが良い、と淡い期待を持っていた麻耶だが、実際に潤と物件を探していると驚くべきことばかりだった。



まず、麻耶が呼ばれて訪れていたような物件は、潤が月々に家賃に出せる金額では到底借りられない。

漠然と想像はしていたが、現実の数字を目の前に突きつけられて、麻耶は初めて結婚生活のリアルを垣間見たのだ。


あぁ、自分はこうして少しずつ少しずつ何かを諦めて行くのだ、と。


それでも麻耶は、若いうちに結婚を決めたことを後悔したわけではない。

若い未婚の女子は選択肢を多く持つ代わりに、年齢を重ねて結婚しにくくなるリスクも同時に背負っている。

結婚を決める前の麻耶の心は不安定で、将来への漠然とした不安と根拠のない自信が入り混じり、軸の定まらない日々を持て余していた。

だが一度「結婚する」と決め流れに身を任せてみると、驚くほど呼吸がしやすくなり、人生の見通しも、クリアになる。

麻耶は単に、「妥当なところで手を打った」のだ。

「友人の彼氏よりも条件が良く自分を甘えさせてくれる配偶者」を求めて東京をさまよい歩くような生活に、30歳にして疲れてしまったというのが一番の理由かもしれない。

だからあの夜、潤からのプロポーズを受けた麻耶はよくわかっていた。

自分がこの決断を受け入れることで、得るものと失うものの大きさを。


友人たちの反応は?

果たしてこれで、よかったの?


潤がプロポーズしてくれたのは、パークハイアットの『ニューヨークグリル』だ。



その日の朝、サプライズで連れて行きたいレストランがあると言われた時点で、麻耶には何となくその夜プロポーズされるかもしれない、という予感があった。

髪の毛を緩く巻いて、肌触りの良い、明るいベージュの華やかなワンピースをカバンに詰めて会社に向かった。

1日中ソワソワしながら、仕事をし、早めに退社してワンピースに着替えた。

耳元にはパールを飾り、控えめなアイメイクにグロスをたっぷり塗った。何も入らないんじゃないか、と思うほどの小さなバッグを持って、会社の荷物や洋服をクロークに預け、もう一度鏡で自分の姿をチェックする。

鏡に映った、男の人に好かれそうなファッションに身を包んだ若い女を麻耶はしばし眺めていた。

今夜、自分は人生においての大事な決断をすることになるかもしれない。

何年後かに、この日のことを後悔するかもしれないし、あの時こう決断してよかったと思う日が来るかもしれない。

今この鏡に映っている女は、不特定多数の男の人に選ばれやすい、華やかで清楚な装いをしているけど、そうした時期は終わるのかもしれない。

そんなことを思いながら、暫く鏡を見つめていた。



可愛がっていたチワワのミルクが老衰で亡くなってしまったのと入れ替わったように娘が生まれてから、玲奈やカリナとはめっきり遊ぶこともなくなった。

だがInstagramを開くと、イタリア人の夫とミラノで暮らすカリナの投稿が頻繁に目に入る。そんな投稿には、麻耶は特に嫉妬を感じない。

麻耶がもやもやしてしまうのは、自分と同じような年齢やルックスの、自分と同じような名前も知らない幼児の母親が、東京で桁違いに裕福な暮らしをしているのを見せつけられる時だ。

子宝にも恵まれ、自分の我儘を聞いてもらい実家の近くに住み、子育ての全面バックアツプを受けて幸せにくらしているはずの自分が、つまらない人間に思えてきてしまう。

麻耶は、こうした感情は若いうちに経験しておけば克服できると思っていた。

だがそれは、SNSを見ている時、レストランで隣に座ったママグループの身なりにランクの違いを感じた時、子供の教育に湯水のようにお金を使う親を見た時など、いやでも芽生えてしまう。

結婚に、子供。

世間的に「女の幸せ」と呼ばれるものを若くして手に入れても、「2人目」「持ち家」「子供の優秀さ」など、女の人生ゲームでは、次々と乗り越えなくてはいけない壁が立ちはだかる。

結婚し、子供を産んで、麻耶は悟り始めていた。

第一戦でゲームを続けていると疲れてしまうけれど、自分はこのゲームから降りられないタイプの人間だということに。

(Fin.)