港区であれば東京の頂点であるという発想は、正しいようで正しくはない。

人口約25万人が生息するこの狭い街の中にも、愕然たる格差が存在する。

港区外の東京都民から見ると一見理解できない世界が、そこでは繰り広げられる。

これはそんな“港区内格差”を、凛子という32歳・港区歴10年の女性の視点から光を当て、その暗部をも浮き立たせる物語である。

港区タワマン・オワコン説に異論を唱え、三田在住なのに麻布十番と言うCAや、いつまでも宴の終わらぬ港区を考えた。



いざ、港区卒業の時。


ミンミンゼミがけたたましく鳴いている。

昔に比べてセミの数は減っていると言うが、毎年セミの鳴き声を聞くたびに夏本番が来たと実感する。

今年は、いつもより早い夏の到来だったように思う。だから既に夏は満喫したと勝手に思っていたが、夏本番はこれからのようだ。

今日凛子は、雅紀と一緒に引っ越し先の物件を見に、品川に来ている。もちろん、足取りは重い(とはいえタクシーなので実際に歩くわけではないが)。

雅紀が探してきた物件は、品川プリンスホテルからほど近い、閑静な住宅街にあるヴィンテージマンションだった。

緑が多く、素敵な場所だ。駅で言うと高輪台、もしくは品川になるようだ。新幹線にもすぐに乗れるし、便利である。

だが、気乗りしないのは何故なのだろうか。

—ただの住所。

そう言われれば、それで全て解決するのは分かっている。それでも、何故だろう。港区には、そんなちっぽけな一言では言い表せないような、不思議な魔力がある。

「ここは数年間だけで、子どもができたらまた引っ越しを考えてもいいかなと思ってるんだ。」

嬉しそうに話す雅紀を、どこか他人のように見つめながら、凛子はこれまでの港区人生を思い出していた。

—港区で、私は何を見失い、何を得たのだろうか...


現実を見ないと彷徨い続ける?港区卒業後の、進路格差

港区卒業後の、女の進路格差


凛子が最初に東京に住んだのは、18歳の時だった。

大学入学と同時に三田に住み着いた。卒業後は麻布十番に住み、青山、六本木と引っ越した後、今住んでいる元麻布へと辿り着いた。

その道のりは、長かったのか、短かったのか。

決して港区フリークだったわけではない。でも港区というアドレスは、12cmのピンヒールくらいに背伸びをさせてくれ、そして自分を格上げしてくれた。

何よりも、港区にいれば東京の一番キラキラした、光を放つ中心部にいられる気がしていた。

しかし30歳を過ぎ、佐藤が昔言っていた言葉を急に思い出すようになった。

「20代という、取り戻せない貴重な10年間を港区で過ごした女性は、30代になった時にその代償の大きさに気がつく時がくる。」

20代の時には分からなかったこの言葉。
しかし、今ならば真意が分かる。

20代半ば、同じ世代の人たちが月10万の家賃を必死に払っている中で、自分は20万の家に簡単に住める術を手に入れていた。

—努力すれば必ず報われる

なんて言葉があるけれど、凛子は20代の時にすべき努力をどこかに置き忘れてきた。だから、たまに不安になる。

雅紀に出会っていなかったら、どうなっていたのだろう、と。



港区の夢物語が終わる時、それぞれに進むべき道がある


港区で20代を生きてきた女性は、卒業後3つの道に別れる。

自分で稼ぎ、自分の実力で高い家賃を払い続ける人。見切りをつけてそれなりの人と結婚し、ある程度の余裕を持って妻として生きる人。

そして淡い夢を見続けた結果、現実と夢の狭間で永遠に生き続ける人。

港区は、いつかは終わるイリュージョン・ショーの舞台。そのショーが終わった時、女性は現実に戻らなければならない。

しかし永遠に現実を見ることができず、彷徨い続ける女性は、もはや港区ホラー物語と化す。


男性にも同じことが言えるだろう。


—祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす


港区で遊んでいる中で、大昔に中学の授業で習ったであろう、平家物語のこのフレーズが何度頭に浮かんだことだろうか。

一度栄華を極めたと思った者が没落していく背中を、凛子は間近で何度も見てきた。

港区から出て、港区毒を解毒するかの如く自然豊かな田舎に移る者。家庭を持ち、港区から離れゆく者。

彼らの行き先は、千差万別だった。


港区からすれば新宿区は島流し?港区の次に住んでも良い区とは?

残酷なまでに美しく、楽しい場所から次に行くのはどこ?


昔出会った男性陣で、今は何をしているのか全く分からない人もいる。時代の流れと共に、残酷なまでに住民たちをふるいに掛け、振り落としていく港区。

だからこそ、成功の証として港区に必死に食らい付く人が後を絶たない。

「本当、残酷な街よね。」

ふっと笑った時、雅紀は不思議そうな顔で凛子を見つめていた。

「凛子。本当は、引っ越しするのは嫌なんでしょ?」

ぼうっと流れる景色を車の中から眺めていただけなのに、雅紀はどうやら港区の中心で生きてきた凛子を心配しているようだ。

「嫌な訳ではないのよ。ただ、慣れないだけで。それに、品川区も良いところなんでしょうしね。」

しかし本当は心の中で、品川区でまだ良かったと思っていた。

港区卒業組から人気が高いのは、千代田区、世田谷区、渋谷区、そして目黒区だ。それ以外の区は、引っ越すとなると大きな声で言いたくはない。

色々と事情があり、新宿区へ移った友人が「新宿区なんて島流し」と言っていた。そっち方面は土地勘もないし、極力避けたい港区卒業後の進路だった。

「新居が楽しみだよ。」

嬉しそうに雅紀が微笑んでいる。その笑顔を見て、これで良いのだと自分に言い聞かせた。



一度染まると抜け出せない、港区の魔力


「ついに、港区から離れる時が来たのかぁ...」

雅紀の横顔を見ながら、思わず感慨にふける。

憧れと恐怖心、その両方を抱えながら今まで港区で生きてきた。その甘酸っぱい憧れは、未だに時々、凛子の胸の奥をぎゅっと締め付ける。

「なんで私、こんなに港区が好きなんだろう。」

心の声は、いつの間にか漏れていたらしい。運転中の雅紀が、大きな声で笑っている。

「港区に一度ハマった人がそこから抜け出すには、過ごした時間の10倍はかかるからね。」

一度でもこの街の魅力に触れてしまうと、そう簡単には抜け出させてくれない魔力を持つ港区。品川区に引っ越しても、しばらくこの住所が恋しくなるのだろう。


今日もまた、港区を去る者がいる。
その一方で、新たに一歩足を踏み入れる者がいる。


車が、夕暮れ時のネオンが灯り始めた六本木交差点を通過した。

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす...」

港区で何度も思い出したワンフレーズを、凛子は思わず声に出していた。


Fin.