夜更けの赤坂で、女はいつも考える。

大切なものは、いつも簡単に手からすり抜けてしまう。

私はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

29歳、テレビ局の広報室で働く森山ハナは、ひと回り年上のプロデューサー・井上と出会う。

葵の画策により、井上のマンションの前で一緒に歩いていた女・静香と、バーで鉢合わせてしまった。



「彼のこと、何も知らないのね」

目の前に座る静香という女はあっさりとそう言って、その言葉にハナは激しく絶望した。

井上に一体、何があったのだろうか?

詳しく聞きたいが、悔しくて何も言い返せない。黙り込んだハナの気持ちを察してか、静香は何も言わない。その感じが、とても癪に障った。

「……じゃあ。私はおいとまするわ。彼女、大丈夫かしら?」

静香はそう言って、隣で寝てしまった葵に視線をやった。

本気で心配そうな表情を浮かべているが、この女は明日になれば、葵の名前なんてすっかり忘れているのだろう。

「大丈夫です」

きっぱり答えると、彼女は「なら良かった」と言って立ち上がった。そして、去り際にこう言うのだった。

「何も失いたくない恋なんて、する意味ないのよ」

その言葉の意味が分からず、ハナが「え?」と返すと、その様子には構わずこう続けた。

「あなた、きっと後悔するわ」

静香はそう言い残して立ち去り、ハナは葵と二人、ぽつんと取り残された。

今日はとても長い、夜だった。


そして時は経ち、静香のその予言は当たった!?

3年後。

ハナは、32歳になっていた。テレビ局から動画事業に力を入れていた渋谷のIT企業に転職し、そこの広告営業として働いている。

結局あの後、ハナは井上さんとの連絡を絶った。井上さんからは「落ち着いてから連絡する」と言われていたが、静香と会ったあと、ハナの気持ちはぷつりと切れてしまった。

「何も失いたくない恋なんて、する意味ないのよ」

静香のその言葉は、いつまでもハナの頭の中から離れなかった。

しかし、失いたくないなら、初めから手放してしまえばいい。それがハナの出した結論だった。井上さんとの関係を手放し、渉君とも別れた。そして頃合いを見計らって、こうして働く場所も変えた。

それでもハナの最終出勤日、井上さんはハナのいるフロアにひょっこり顔を出し、「頑張って」とだけ言ってくれた。

その瞬間、井上さんに全て話してしまいたいという衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。

「あなたきっと、後悔するわ」

静香のその言葉に、「いいえ、私は絶対後悔しません」と喉元まで出かかった。しかしその決意を支えに、こうして毎日を過ごしてきたのだった。



―今日、飯どうする?六本木で、軽く食べようぜ。

ハナがもの思いにふけっていると、スマートフォンが振動した。メッセージの相手は、同僚の直樹だ。転職後、時間があれば食事に行く仲になっている。彼は週の半分は渋谷、週の半分は六本木のオフィスにいるのだ。

―了解。



ハナは渋谷から六本木に向かい、約束まで時間があったので、ミッドタウンをぶらついた。

男が変われば、よく行く街の場所も変わる。直樹と付き合うようになって、この辺りはすっかり馴染みの場所になった。

直樹の勤務先である六本木ヒルズを避けて、こうしてミッドタウンで待ち合わせることが多かったのだ。

ミッドタウン1階の「TASAKI」に飾られている美しいパールを見て、思わず足を止める。中には入らず、その前を通り過ぎようとしたときに、店内にいた一人の男の姿が目に入った。

それは紛れもなく、3年前と同じように縁のところに少しデザインがかった眼鏡をかけた、井上さんの姿だった。

そして彼の隣には、静香がいる。

静香に電話があったようで、二人は店から出てくるようだ。ハナがぼんやりとその光景を眺めていると、ちょうど直樹がやってきた。

「…ハナ?」

後ろから声をかけてきた直樹の声と、店から出てきた井上さんの口元の動きが、重なる。

ハナは井上さんから視線をそらし、くるりと向きを変え、直樹ににっこり微笑んで「行こう」と言った。


店内で繰り広げられていた、井上と静香の会話とは?



「まぁ、素敵」

数々の指輪を見ながらそう言って微笑む静香は、とても2つのバツつきの、44歳を迎えようとする女には見えなかった。

井上はその無邪気な姿にやや呆れながらも、静香の隣で店員の説明を一緒に聞いてやっていた。

「指輪をもらうのは3回目なのに、いつ見てもいいものね」
「これで、最後にしろよ」

井上がそう声をかけると静香は少し怒ったような表情をして、くるりとガラスケースに視線を戻した。

「それで、いつから一緒に住むの?」
「そうね、あちらの離婚が成立してからかしら」

静香の発した“離婚”という言葉に、隣にいたカップルが気まずそうにうつむく。

「あら、フミヤ君だわ」



婚約相手から電話がかかってきたらしい静香は、小さなハンドバッグから携帯を取り出し、店を出て行く。その後を、井上は黙ってついて行った。

今日、井上は静香の結婚指輪選びに付き合っていた。

彼女は結局、広告代理店時代に付き合っていた男とヨリを戻した。しかしその男は結婚していたので、正確に言うと略奪婚だ。

「お前いつの間に、そんなことしてたんだ?」

静香の“事後報告”を全て聞き終えたあと、井上は思わずそう口にした。そんな様子は一切見せず、それどころか井上の恋愛相談に散々乗ってくれていた。

「いつって、あなたと会っていないときよ」

そりゃそうだけど、と井上は言うしかなかった。

井上は相変わらず、独身だ。ハナとは連絡が取れなくなって、静香は結婚すると言うし、こうしてまた一人になった。

彼女は一体、何をしているのだろうか。
もう、結婚しているのだろうか。

どうやらあのときハナは、他のテレビ局にいる男と付き合っていたようだ。彼女が辞めたあと、飲み会の席でその噂話を耳にして、「やっぱり」と妙に納得してしまった。

静香が電話をしに店の外に出たので、井上もそれについていく。そして店を出た瞬間、信じられない光景に足を止めた。

目の前には、紛れもなくかつて井上が心から愛した、ハナの姿があったのだ。

「ハナ…?」

井上に気づいた彼女は深く一礼し、見知らぬ男の元へ駆けて行く。

「どうしたの?」

電話を終え、井上の様子に気づいた静香が声をかけてきた。その視線の先に気づくと、静香は「追いかけないの?」と聞いてくる。


その言葉にはっとし、井上は一歩、踏み出した。


大人になればなるほど、傷つくことを恐れてその一歩をなかなか踏み出しきれない。しかし一歩でも踏み出さないと、傷つくことさえできないのだ。

自分はまた、同じところでつまずくのかもしれない。

しかし井上は、踏み出す足を止めることはできなかった。

―Fin.