子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

レコード会社で働く希は、恋人からプロポーズされた。だが、育休から復職した先輩・佳乃を見て、子供を育てながら仕事を続けることの大変さを目の当たりにして、将来の自分を不安に思うのだった。

今回は2年後の彼女たちの姿をお届けしよう。



メールを送信し終えると、希は重たいお腹をかばうように席を立った。

妊娠33週になり、産休に入るまではあと1週間。後任への引き継ぎも順調で、休暇に入る実感がじわじわと沸いてきた。

プリンターから紙を取り再び自分のデスクに戻ってパソコンを見ると、メールが1通届いていた。

件名の頭には【業務外】とある。送り主は佳乃だ。

さっそくメールを開くと、そこには5つのURLが並んでおり、それぞれには項目がついていた。

家事代行のURLが3つ、ベビーシッターが2つ。ひとつずつに佳乃のコメントもついていた。

パソコン越しに佳乃のデスクにちらりと目を遣ると、彼女と目が合いニコリとされた。

―行きます?

希が声を出さずに口だけを大きく動かすと、佳乃はまた笑顔でこくりと頷いた。

産休に入る前の、佳乃との最後のランチだ。

希はまた重たいお腹をかばうように席を立ち、佳乃のもとへと近づいた。


意外な変貌を遂げた、2年後の佳乃。

「希ちゃん、さっきメールで送ったところ、どれもオススメだからぜひ使ってみてね」

お店へ向かう途中、佳乃が楽しそうに言った。



佳乃がランチに選んでくれていたのは『レストラン エム』。ディナーでは、生のまま空輸されたイベリコ豚を食べられるレストランだ。

「希ちゃんも、ついにママになるのねぇ」

テーブルに向かい合うと、佳乃が優しい笑みを浮かべてしみじみと言った。

昌大にプロポーズされた日から約2年。その間に希は、婚約、結納、結婚式、新婚旅行、妊娠という女の人生のメインイベントとも言える出来事を、一気に終えた。

「希ちゃん、大切なのは旦那さんの協力と“理解”だからね」

もう何度も聞いた言葉を、佳乃はまた繰り返した。これを言われる度に、希は2年前の佳乃の姿を思い出す。

―あんな風にはなりたくない。

当時の希は、仕事と家庭の両立に疲弊しきっていた佳乃を見てはそう思い、子育てどころか結婚さえも怖くなっていた。


東京で母になるということが、茨の道にしか思えなかった。


だから昌大からプロポーズを受けた時も、家事能力の向上を条件に挙げた。

「希ちゃんも、全部自分で完璧にこなそうなんて考えちゃダメだからね。フルタイムで仕事してたら、家事なんてできなくて当たり前なのよ。だから、旦那さんの理解を得て、ベビーシッターとか家事代行とか、どんどん使えばいいの」

そう話す現在の佳乃は、2年前とは比べものにならないくらい穏やかな表情を浮かべる。

当時は見ていて痛々しいことさえあった佳乃だが、ある時を境に急に元気になったのだ。まるで、萎れていた花に水をやった途端しゃきっと元気になるように、それは急激な変化だった。

きっかけは、子どもの入院だと聞いた。

子どもが入院することになった時、佳乃は自分を責め、家族を犠牲にしてまで仕事を続ける意味がわからなくなり、本気で仕事を辞めようと考えたらしい。

その少し前からベビーシッターなどを使ってみてはどうかと、夫の紀之から提案されていたそうだが、佳乃はそれを良しとはしなかったと言う。

「当時はね、そういうサービスを使うことに抵抗があったのよ。なんだか手抜きをしているみたいで。何せ私、昔ながらの良妻賢母を目指してたから」

自分で言いながら、佳乃は可笑しそうに笑った。

家事、仕事、育児。すべてに手を抜かず、どれも完璧にこなすことが、理想的な女性=良妻賢母と疑わなかった佳乃。

だが、理解ある夫・紀之からこう言われたらしい。

「家庭のために仕方なくキャリアを諦めるのって、おかしいと思うんだよ。だから仕事を辞める前に、そういうサービスを使ってみようよ」と。

そうして渋々、「家事を自分でやらない」という選択肢を受け入れた佳乃は、みるみる生気を取り戻した。

精神的にも肉体的にも自分を縛りつけていた“良妻賢母”という幻想から解放されたのだと言う。


佳乃が続けて言った、予想外の一言とは。

「今考えたら、どうしてあんなに“自分で全てを完璧にこなす”ことに固執していたのか、わからないわよ。余裕がなくてカリカリしている妻は、決して良妻とは言えないし。母親も働き続けて、キャリアを重ねる姿を子どもに見せることが、これからの賢い母なのかなって思えるようになったの」

そう言い切る佳乃からは、迷いなんて一切感じられない。

現代の東京において、子どもを産み、育てて、家の中をいつも綺麗にしているだけの人生なんて、きっと辛くなるだろう。

世の中には、きらきらと輝いている女性、洗練されたデザインの装飾品の数々が溢れており、メディアやSNSを通して嫌でも目に入ってくる。そして、そういうものの存在を知ってしまうと、自分にもそれを手に入れる権利があると思うのが人間だ。

仕事で得られる充実感、心を満たしてくれる物を自分のお金で買うことは、母親になっても手放すべきではない。それこそが、東京を生きる女の活力になるのだ。

だから、妻が仕事を辞めないための試行錯誤こそが、これからの夫婦の課題だと考えた希は、昌大にはすでに宣言していた。

育休から復職したら、家事代行を利用すること、ベビーシッター代は惜しまないことを。

もちろん、ベビーシッタ―や家事代行を利用する生活がずっと続くわけではない。子どもが小さく手がかかる間の、数年の話だ。

理解ある昌大は、最初こそ戸惑ってはいたが佳乃の話を繰り返す内に危機を感じたのか、希の希望を受け入れてくれた。

「私も今、2人目を考えてるのよ。赤ちゃんのあの匂いが最近恋しくなってきちゃって」

食事を終えると、佳乃が言った。

「じゃあもしかして、私が復職する時にはすれ違いになっちゃうかもしれませんね」

希が言うと、2人で大きく笑い合った。



会社に戻ると、ゆり子がエレベーターから颯爽と降りてきた。

ひざ下丈の白いタイトスカートを履いており、彼女が一歩足を踏み出すごとに、深いスリットから艶めかしい足が大胆に露出する。

40歳を目前にして、ゆり子の美しさに磨きがかかったと囁く者も多い。

ひと回り以上年下の彼氏ができたらしいとか、大企業の創業者の後妻になるらしいなど、様々な憶測が飛び交っているが、その真相は誰も知らない。

40歳になることを恐れる女性も多いが、ゆり子を見ていると年齢を重ねることも悪くないなと思えるほど、余裕と自信にあふれている。

佳乃とはまた違った意味で、希やその下の世代の希望の星となっている。

「あら、希ちゃん」

希に気付いたゆり子に声を掛けられた。

「私、来週全部出張になっちゃって、誘ってたランチいけなくなっちゃったのよ〜」

少し鼻にかかった甘えるような声で言われた。

「もし余裕があればお休みに入ってからでもランチに行きましょうね。希ちゃん、待ってるから、ちゃんと帰ってきてよね」

休暇に入り、次に出社する時は、希もワーキングマザーの一人になっているのだ。

そこにどんな試練が待ち受けているのか、不安がないと言えば嘘になる。

だが、佳乃の言う良妻賢母であれば自分もなれるのではないと思えて、幾分気持ちは楽になる。

「はい、もちろん戻ってきます!」

仕事を手放すつもりはない。
母親になったからと言って、キャリアを諦めるべきではない。
家事を一切やらない期間があっても良いではないか。

一生懸命働く女こそが、これからの良妻賢母だ。


(Fin.)