結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。

結婚生活3年目、夫の浮気が発覚したのをきっかけに、話し合いを経てついに離婚を決意。離婚の手続きを終え新しい生活を始めた祐実に、さらなる転機が起こる。



人形町の『ユニゾン・テイラー・コーヒー・アンド・ビール』で、祐実はコーヒーを飲んでいた。

ここは5月にできたばかりの新店で、ハンドドリップのコーヒーをゆっくりと味わうことができる、お気に入りの店だった。

「ごめんね、待った?」

駅の階段を急いで駆け上がったと思われる寛が、息を切らしながらやってきた。

「ううん。大丈夫」

そう言って、祐実は読みかけの仕事の資料を閉じた。

マネージャーに昇進してから忙しさは格段に増したが、やりがいはその何倍にも増えた。毎日深夜まで残業しているので、「社内一のワーカーホリック」と言われている上司の麗子も、呆れているくらいだ。


30歳までに結婚。
35歳までに出産。


昔描いていた人生の計画は頓挫したが、ないものを嘆くより今の幸せを噛みしめて前に進んでいくことが大切だと、身を持って感じている毎日だ。

寛が「会社を辞めて鎌倉に戻る」と言った日から、ちょうど半年が過ぎていた。近くに住んでいる間に互いの家を行き来する仲になり、引っ越してしまってからも、付き合いは続いていた。

「妻に浮気された」という寛の秘密を知って以来、二人の仲は急激に深まったのだ。

今日は日本橋にあるフレンチレストラン『ラペ』に行く予定だった。


寛と祐実の仲に、ある変化が訪れる!



「美味しかったね。来週は、鎌倉まで行こうかな」

『ラペ』での食事後、二人でゆっくりと東京駅までの道を歩いていた。



「本当?じゃあドライブがてら、葉山の美味しいお蕎麦屋さん教えてもらったから行こうか。でも祐実、ちょっと疲れているみたいだけど、大丈夫?」

寛と会えるのは、多くて月に2、3回。こうして一緒にいる時間は、とても貴重だった。疲れた顔は見せたくなかったが、来週の新作発表会の準備で、最近残業が続いていた。

「うん。ちょっと忙しいけど、大丈夫」

寛は「無理しないでね」と心配そうに言いながら、改札に消えていった。

疲れが溜まっているだけかもしれないが、たしかに少し気分が良くなかった。帰りは歩きで20分くらいかかるので、東京駅でタクシーを拾うことにした。乗った瞬間、タクシー独特の匂いが、むっと鼻についた。


―あれ……?そう言えば、来てないかも。


あの日と同じように、心臓がどくん、と波打つ。

月のものが、2週、遅れていたのだった。

この前とは違い、戸惑いより驚きの方が強かった。



「それで?どうするのよ」

電話越しに聞こえる母親の亜矢子の声が、いつもより低く響くように感じた。

「……そうね」

何の答えにもなっていない祐実の言葉に、亜矢子は追及の手を緩めない。

「産みたいの?」

妊娠の兆候を感じた祐実は、すぐに病院に検査に行った。


結果は、陽性だった。


目の前にいた白髪の医師は「おめでとうございます」とにっこり微笑み、しかし祐実はただ困惑するだけだった。

「寛さんには、言ったの?」

その問いに「ううん」と、首を横に振る。

お腹の中にいる子の父親である寛は、鎌倉にいる。そして仕事も生活も、徐々に軌道に乗って来たところだという。そして祐実もそれは同じだった。マネージャーとしての仕事にやりがいを感じていたし、今この生活を捨てて鎌倉に行くとは、とても想像できない。

しかしそれでも、祐実には「産む」決心があった。検査の結果が出るまでは戸惑いが強かったが、「産まない」という選択肢はなかった。それは自分の意思を越えた、”覚悟”だったのだ。

「明日家に来るから、そのとき言うわ」

祐実がそう言うと亜矢子は珍しく、「どうにでもなるから、困ったことがあったら言いなさい」と励ましてくれた。


予想外の妊娠。寛の反応は?


その週は、祐実が鎌倉に行く予定だったが、「具合が悪い」と言ったら、寛は家まで来てくれた。

「具合、大丈夫?」

いつも旺盛な食欲を見せる祐実が、「食欲がないから家でもいい?」と言うと、心配した寛は、ゼリーや飲み物などを、両手に抱えて持ってきてくれた。

「あのね、実は……」

この2週間、悩みに悩んだ祐実は、ついに全てを話した。

妊娠していること、産みたいと思っていること、しかし仕事のことを考えると鎌倉には行けないと思うこと。

「……そうか」

寛がようやく発した声はとても小さかったが、何か思案しているようだった。

「俺、父親になるんだな」

寛はまだ受け入れられないのか、ひどくぽかんとしていた。そして祐実を抱きしめてこう言うのだった。

「もしかしてこの2週間くらい、ずっと悩んでた?」

その言葉に、祐実は思わず泣きそうになった。

結局具体的な結論は出なかったが、母親の亜矢子の力を借りながら、しばらく“別居婚”というかたちをとることにした。





帰り道、祐実は寛と人形町通りを歩いていた。

すると15時きっかりに、時計台から三味線の音色が聞こえ、時計の下にある人形がくるくると回っていた。

祐実はそこで、思わず足を止めた。寛はその様子に気づかず、どんどんと前を歩いていく。

定時にきっかり流れる人形たちを見ながら、自分の人生を掛け合わせていた頃のことを思い出した。

結婚して家を買い、子どもを授かる。

20代後半から、一つひとつに踏み出すごとに、「理由探し」をしていた祐実だったが、実際人生を夢中で過ごしている今、その「理由探し」なんて何の意味もなさないことに気がついた。

自らの意思で家を出て、この人形町という街に引っ越し、東京で「別居婚」という道を歩もうとしている。

その先に何があるのか、祐実はまだ分からない。

しかし寛のあとを小走りで追いかける足取りは、間違いなく以前より軽やかだった。

―Fin.