人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

身も蓋もない、無謀で純粋な恋に堕ちてしまった女は、美しく、ひたむきに、強かに、そして醜く成長していく。



ベッドサイドの灯りをゆっくりと絞り、なるべく音を立てないように、部屋を暗くする。

夫の宗一はこちらに背を向けて、静かな寝息を立てている。菜月は同じくそっと彼に背を向け、柔らかな枕に頭を預けた。

ベッドに横になってから、眠りに落ちるまでの数分、ときに数十分。

菜月にとって、それは一日で一番幸せな時間だ。

“彼”との記憶をこっそり取り出し、飴玉でも味わうかのように、甘ったるい感情に酔う。

悪戯ぽく微笑む彼の表情、少し甘えが混じる低い声、そして、菜月の手首を強引に掴むときの、あの力強さ。

―こんなに細いと、壊しちゃうよ?

彼のセリフが鼓膜に甦り、菜月は思わず息苦しくなる。その一瞬の後、今度は胸が締めつけられるような寂しさに襲われ、居てもたってもいられないほどの焦燥感と虚しさに駆られる。

―どうして、こんな風になっちゃったんだろう...

静かに大きく息を吐きながら、切なく軋む思いに身を委ねた。

自分でも恐ろしいほど、最近の菜月は感情の振れ幅が大きくなっている。

結婚して30歳を過ぎた自分が、これほど身も蓋もない恋に落ちるなんて、嘘みたいだった。


人妻が、男に出会ってしまったきっかけは...?

安泰の人妻に、男に注ぐエネルギーなんてないはずだった


菜月が達也と出会ったのは、数ヵ月前、たまたま人数合わせで呼ばれた2:2の食事会だった。

「なっちゃん、一生のお願い。今夜の食事会、付き合ってくれない?一緒に行く予定だった友達にね、ドタキャンされちゃったの...」

その日、親友の美加は菜月が講師を務めるパワーヨガのレッスンを終えると、噴き出す汗を拭うのもままならぬ状態で走り寄り、懇願するように言った。

なんでも、男友達にとっておきの独身男を紹介してもらえるとのことで、代わりに可愛い女友達を連れて行くと約束したそうなのだ。

「だからって、なんで私が?さすがに行けないよ...」

可愛いかどうかはさておき、菜月は人妻である。代打を頼まれるにふさわしい女ではない。

「大丈夫!なっちゃんは、ただ居てくれるだけでいいの。既婚は一応隠しておいて欲しいけど、会話は私がうまく繋ぐから大丈夫。だから、お願い...!」

当然断るも、美加はしつこく食い下がる。彼女は目下、恋人(および結婚相手)探しに必死なのだ。

―まぁ、いっか...。宗一さん、今日は会食で遅くなるって言ってたし...

切実に頭を下げる親友のため、菜月が渋々承諾すると、美加の顔は一気に晴れやかな笑顔になった。

31歳にもなると、条件のいい恋人を探すのは大変だという。彼女の恋愛の苦労話は嫌と言うほど聞かされている。それに、実は彼女には“借り”があるのだ。

菜月は2年ほど前に5つ年上の医師である宗一と結婚したが、夫を紹介してくれたのは、この美加である。



小柄で小動物系の可愛い顔をした美加は、学生時代から読者モデルとして人気を博しており、社交的で顔が広い。

20代の頃は彼女に連れられ、菜月だけではとても経験できないような美味しい思いも散々させてもらった。

さらに、時間を持て余した主婦のお小遣い稼ぎとして始めたヨガインストラクターも、多くのフォロワーを抱える美加がInstagramで何度も紹介してくれたおかげで、かなり景気の良い仕事になっている。

彼女は現在、外資系ラグジュアリーブランドの広報を務めているが、月に1、2度は必ずレッスンに顔を出してくれる。広尾の閑静な住宅街にあるこのヨガスタジオを気に入ってくれているようだ。

「ねぇ、でもなっちゃんは黒子だからね。あんなに素敵な旦那様がいるんだから、メンズを横取りしないでよね」

「当たり前でしょ。もう、私にそんなエネルギーないわよ」

二人は冗談まじりに笑い合いながら、ヨガの汗を流すべくシャワーへと向かった。

このときは、まさかこの美加のセリフが現実のものとなるなんて思ってもいなかった。

同時に菜月は、長年の親友も、心地よい仕事も、すべて失うことになるのだ。


隠居生活に浸っていた人妻は、久しぶりの食事会に疲弊するが...?

人妻にとって、遠くかけ離れた世界。金曜夜の六本木


食事会の場所は六本木だった。その日はちょうど金曜日で、街は多くの人で溢れている。

「金曜の夜に六本木を歩くなんて、久しぶり...」

タクシーが無数に行き交う、昼間よりずっと混雑した道路。仕事終わりと思しき男女は、誰もがこの乱雑で艶めかしい六本木の街に同化しているように見える。

人妻となった自分にとっては、すでに遠く離れた世界。

特に菜月の目を引いたのは、瑞々しい手足や肩を惜しみなく露出させ、夏らしい明るい服を着た若い女たちだ。

隣の美加も、水色のブラウスに白のフレアスカートという食事会にぴったりなファッションをしている。

番町の自宅に戻るのも面倒で、黒のサマーニットにワイドパンツという色気のない恰好で金曜夜の六本木に出向いてしまったことが悔やまれた。

「あ、ほら、ここだよ!」

『ベンジャミン ステーキハウス 六本木』は、六本木交差点からすぐの場所にあった。

重厚感があり、かつ賑やかで洗練された雰囲気のこの店は、1か月ほど前にオープンしたばかりの話題の店だという。



「ねぇ、本当にいいのかな、こんな素敵なお店...。私、独身じゃないのに...」

「いいのいいの!私の友達の達也くんは、ちょっとチャラいけど、そういうの分かってくれる人だから。説明は私があとでするから、菜月は心配しないで。今夜は楽しもう!」

奥まったテーブル席では、スーツ姿の男たちがすでにビールを飲んでいた。

菜月の友人の達也は、2つ年下の29歳の商社マンとのことで、たしかに遊び人風で、若々しく整った可愛い顔立ちをしている。

「おう。美加、お疲れ」

そう言って、美加の肩を軽く抱く。いかにも女慣れした立ち振る舞いに、菜月は一瞬面食らった。

もう一人の男は、もともと達也の同期で、家業の食品メーカーの仕事を継いだばかりだという。育ちの良さそうな顔と、優し気な雰囲気が印象的だ。

皆はとりとめのない話でさっそく盛り上がっているが、菜月は既婚という隠居生活が長かったため、会話に混じるのも一苦労だ。

しかも一応既婚を伏せているから、話す内容にも気を遣わなければならない。

結局、中途半端な微笑を顔に貼り付けたまま、3人の会話に耳を傾け、言われた通り黒子に徹する。

皆の話に相槌を打ちながら肉汁滴るステーキを口にすると、何となく夫の顔が思い出された。

「菜月さん、仕事は何してるの?お酒、飲まないの?」

ふと気づくと、達也が頬杖をつきながら、じっとこちらを見つめている。

「よ、ヨガインストラクターをしてます。最近、あんまり飲んでないので...」

そう答えると、彼は口元に薄い笑みを浮かべた。そして形の良い二重の瞳で、さらに無遠慮なほど強く菜月を見つめる。

―何か、嫌な感じ...。

妙な居心地の悪さを感じながらも、辛うじて平静を保つ。男の人からこんな視線を向けられるのも、実に久しぶりなのだ。

「もしかして、人見知り?可愛いね。ねぇ、菜月さん、ものすごい俺のタイプなんだけど」

達也が囁くように言ったとき、菜月の胸は驚くほど大きく音を立てた。しかし感情はそれに反して、彼の軽率で勝気な発言に、酷く苛立ちを覚えている。

あとから思えば、それは理性が辛うじて発していた、無謀な恋に落ちる前の危険信号だったのかもしれない。


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