出世したい―。

サラリーマンである以上、組織の上層部を狙うのは当然のこと。

だが、仕事で結果をだすことと、出世することは、イコールではない。

そんな理不尽がまかり通るのが、この世の中だ。

出世競争に翻弄される、大手出版社同期の2人。

果たして、サラリーマンとして恵まれているのは、どちらだろうか。


秋吉直樹(34歳)は同期の武田壮介と偶然遭遇し一緒に飲むことに。そこで、武田から思いがけない言葉を言われて驚く直樹だった。



「お前が、死ぬほど羨ましくなることがあるんだよ」

『十六公厘』で、直樹の目の前に座る武田が呟いた。

酒に酔い、半分目が座った状態だ。だからこそ、武田の言葉は直樹に響いた。

普段言えないような本音を、酒の勢いを借りて吐き出したのだろう。

「何言ってるんだよ、武田。お前は石原部長という大きな後ろ盾があるし、出世コースにも乗ってるじゃないか」

たとえ自分のことを羨んでいたとしても、客観的に見て社会人として恵まれているのは武田の方だ。

「それはどうもありがとう」なんて馬鹿正直に武田の言葉を喜ぶ気には、当たり前だが到底なれない。

直樹の反論を、武田はがくりと頭を垂らして聞いていた。

一瞬寝てしまったのかと思い顔をのぞき込んだが、武田の目はしっかりと開いていた。

武田は、しばらくの沈黙のあとゆっくり頭を起こし、今度はぽかんと口を開けて天井を見上げた。

その焦点は定まっているのか、いないのか、直樹にはよく見えなかった。

「俺はなあ……」

顔と天井を平行にしたままの武田が口を開いた。


武田が明かす、自分に感じるもどかしさ。


「俺はなあ、何のために出版社に入ったかって、それはもちろん本をつくるためだよ。営業なんてする気はなかった」

カウンターに肩肘をついてそう言い放つ武田を見て、なんだか少しだけ哀れに思えてしまった。

「お前、飲み過ぎだぞ」

直樹が言っても、「そんなに飲んでねえよ」としか返してこない。

本来であれば今夜は、軽く食事を済ませて早々に帰るつもりだった。だが、酔った武田をこのまま置いていくのも悪い気がして、直樹は完全にそのタイミングを逃してしまった。

「タクシー呼ぶか?」

武田にそう問いかけるが、彼は何も反応しない。

どうしたものかと困っていると、武田がぼそぼそと話し始めた。

「たしかに俺は、石原部長に気に入られてるよ。でもそんなことよりな、自分のやりたいことで結果を出してるお前が羨ましいよ」

武田は、カウンターのどこか一点を見つめて言った。そしてさらに続けた。

「俺は、やりたいこととは違うことでそれなりには結果を出してるよ。でも、じゃあ俺とお前とどっちが幸せだと思う?毎晩酒飲んでミスチル歌うのも、嫌いじゃないよ。でもな、やっぱり編集した本を評価されて出世したいんだよ、俺だって」

怒るでもなく、嘆くでもなく、武田は淡々と言った。

まさか、武田から「俺とお前とどっちが幸せか」と問われ日がくるとは思いもしなかった。

武田のような根っからの体育会系男は、そんなことは考えずに与えられた目の前の仕事を、ガシガシこなしていくのだと直樹は思っていた。

「でもお前が作る本、まじで面白くないぞ」

直樹が、半分冗談、半分本気で言った。横目でちらりと武田を見ると、うっすら笑っているように見えた。

「……そうなんだよなぁー。一流の編集者にはなれないことなんて、俺自信が一番知ってるよ」

武田は、力なく言った。その声は、隣に座っているサラリーマンたちの大きな笑い声にかき消されてしまった。

こんなに武田が小さく見えたのは、初めてだった。

―1年後―


「では、最初の締め切りは3カ月後にしましょう」

西内ほのかと、社内での打ち合わせを終えて、直樹は自分のデスクに戻った。

デスクの上には文庫本が積み上げられ、空になったスターバックスのカップが2個ならんでいる。

散らかったデスクを片づけ終えると、椅子に深く座ってペットボトルの水を飲んだ。

直樹は今も文芸誌編集部にいた。

武田から引き継いだ作家・西内ほのかとは1冊の本を出した。

何度も手直しさせ、言い合いになったことも数え切れない。残念ながら爆発的な売り上げには程遠いが、それでも武田の頃より部数は伸びた。


武田は東京からいなくなっていた……?!

武田は現在、大阪にいる。

大阪支社に転勤になったのだ。これはこの会社では出世コースど真ん中の証だ。

上に行く者は、一度東京から離れて大阪に行くのが昔からの決まったコースなのだ。

この転勤は、同じタイミングで石原部長が執行役員になったことが大きく関係している。

石原部長がさらに上へ行く時、武田が東京に戻されるはずだ。その時は、直樹との差はもう埋まらないほど開いてしまうかもしれない。

やはりそれは、悔しい。どんどん差をつけられるのを、指をくわえて見ているだけのように思えて、じりじりとした焦りを感じることがあるのも事実だ。

出世のスピードは武田よりも遅れているし、どこまでいけるのかもわからない。

10年後も同じ会社にいるのか、どんな仕事をしているのか……そんなことはいくら考えてもキリがない。だが、働き続けることに変わりはない。



これからも続く、長いサラリーマン人生。

「出世ばかりがすべてじゃない」という言う者も多いだろう。現に、最近では「出世したくない」と言う若手社員が増えていると聞いて、直樹は呆れた。

忙しく働くよりも、ワークライフバランスを重視したいという理由が大きいらしいが、直樹には理解できない考えだった。

だがそれを聞いて、直樹が武田のことを嫌いになりきれない理由がようやくわかった気がした。

武田も、貪欲に出世することを目指しているからだ。

仕事で結果を出すよりも、上司に気に入られて出世するというスタイルは気にくわないが、武田が真剣に仕事をしているのは、よく知っている。

出世したい理由なんてなんだっていいのだ。

高級レストランに、毎日のように通うため。

良い家に住み、良い車に乗るため。

鏡に映る自分の姿に幻滅しないため。

10年後にくたびれたスーツとぼろぼろの靴を履いて電車にゆられているオヤジにならないように。

これくらいの理由で十分であるしむしろ、理由なんてなくてもいいとさえ直樹は思っている。

おそらく武田だって、何か立派な大義のために仕事をしているとも思えない。

それでもただ、上を目指す。

武田と自分と、サラリーマンとして幸せなのはどちらか。

あの夜武田に問われたが、この問いに答えなんてないのだろうと考えるようになった。

直樹は、空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、閉じていたノートパソコンを開いた。

メールは何通も溜まり、今日中に作らなければならない資料にはまだ一切手をつけていない。

いくらやっても仕事はなくならない。それでも、今日も真剣に仕事をする。

直樹は、大きな咳払いをひとつして、姿勢をただしてパソコンに向かった。

Fin.