結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?



26歳の私と、29歳の私。


夏の朝は、寝室に白く、強い光が入る。

自然に目覚めた志穂はゆっくりと数回瞬きをしてから、隣で寝ている娘のひなに目をやった。

汗をかきながらも、静かに寝息を立てながらぐっすりと眠っている娘の寝顔を確認してから、今度は夫の姿を探す。

夫の姿はなかった。脱ぎ散らかされたTシャツを拾い上げながら、志穂は大きくため息をつく。

「今日は何をしよう…。」

志穂と夫と、娘の3人が暮らすここ世田谷区の駒沢大学駅周辺は、ひとことで言うとのどかで平凡な街だ。

専業主婦である志穂は、先月2歳になったばかりの娘と、日がな1日何をするでもなく街を歩く。

公園、スーパー、住宅街、商店街、そしてまた、別の公園。

延々と続く道を時にはベビーカーで、時には果てしなく自分勝手なペースで歩く娘の手を引きながら歩く。

自分は間違いなく幸せだと思う。夫は大手の広告代理店に勤め、こうして可愛らしい娘も授かり、働かなくとも生活の心配はない。

だが、結婚後3年経ち、そして母となった今でも、志穂は結婚前の華やかな生活を完全に忘れることは出来ていなかった。

そんなことをふと口に出せば、母親失格だ、なんて子供じみているのだ、と呆れられるのも分かっている。

だが、今の生活は単調で、あまりにも退屈だった。自分の人生を生きているという実感が得られない日々が、ただただ繰り返される。

キッチンに向かい娘の朝食を用意しながら、志穂はふと、26歳、独身最後のバチェロレッテ・パーティーの夜のことを思い出していた。


自分の足で立ち、華やかだった日々。

若い女の選択は、浅はかさと紙一重


ー3年前ー

「志穂の独身最後の夜に、カンパーイ!!」

声を張り上げないとお互いの声が聞こないほどの爆音に負けぬよう、着飾った若い女達が声を張り上げていた。

リムジンを貸し切ったバチェロレッテ・パーティーの主役である志穂は、はしゃぎながらも、こぼさないよう丁寧に皆のグラスにシャンパンを注いでゆく。

その夜は、デコルテを強調したシャンパンゴールドのベアドレス、足元にはD&Gのブラックビジューパンプスをチョイスした。158cmという身長の割に脚がすらりと長い志穂は、もっぱらミニ丈と10cmヒールでコーディネートを組むことが多い。

「明日から、志穂はもう人妻なのね〜!」

「なんか人妻って志穂のイメージと全然ちがう!」

遊び友達や、学生時代の女友達。

美人で勢いのある、若い女ばかりが7名集まった。みなツヤツヤとした肌を光らせながら、思い思いのドレスを身に纏いさざめきあう。



仲間の中で誰よりも早く結婚を決めた志穂に、嫉妬心を持つようなものは誰一人としていなかった。

当たり前だ。

最年長のリサでさえ、当時は27歳。みんな、吟味に吟味を重ねていい男と結婚しようと女っぷりを磨くのと、リムジンから見える東京の夜を味わい尽くすので忙しく、立ち止まることなんて選択肢になかったようだ。

志穂のように一番最初にプロポーズしてきた男とあっさり結婚する方が珍しい。

このリムジンパーティに参加しているのは、スタートアップの創業メンバー、大手商社、テレビ局、外資系金融、エンジニア、人材派遣会社など、業界こそバラバラだったが皆それぞれに「稼げる女」なのが共通点。

流行りの服を買うのも、気後れしそうなハイクラスのレストランに行くのだって、ヒールで歩けなくなった時に乗るタクシー代だって男に頼らずとも自分でなんとか出来る女達なのだ。

だから、志穂が「結婚を機に仕事を辞める」と言い出したとき、皮肉交じりに大丈夫なの?と聞かれたことも1度や2度ではない。

志穂の勤めていた大手化粧品メーカーは、仕事と育児や介護の両立支援も盛んだったが、職場の人間関係に少し疲れていたところへ康介からプロポーズされた。

職場の愚痴をこぼす志穂に、「そんなに大変なら辞めちゃえよ。俺が養ってやるから。」と力強く言われ、舞い上がりそのままの勢いで退職届を出してしまったのだ。


頼れる男らしさにすがりたかった

失って初めて気がつくものがある


6歳年上の夫、康介とはよくある食事会で知り合った。

志穂とは職場が同じ汐留だったため、初めは気軽なランチ仲間として会っていた。

それからは、自然と仕事帰りの夕飯の約束も増え、「志穂ちゃん」が「志穂」になり、平日だけ会う関係から休みの日も行動を共にするようになった。

康介は、仕事帰りのさりげないディナーと見せかけて、ザ・リッツ・カールトン東京の『タワーズ』でプロポーズをしてくれた。



プロポーズを受け入れた時は26歳で、もっと他の男たちを見た方が良いという友人たちもいたが、そんなことは無駄としか思えない。

何より、志穂は康介が大好きだった。

好きな人と、結婚する。そして結婚したら、子供を産むことを考えて、仕事を辞める。

それは、志穂にとっては普通のことだった。

そんな康介との間に授かったひなは、康介に似て大きな垂れ目が愛らしい。

ひなの笑顔を見ていると、失った華やかな日々のことはどうでも良くなるから不思議だった。

キッチンでひなの朝食の支度を終えた志穂は、自分も適当にパンを口に入れる。

出産以来、席についてゆっくりご飯を食べることは殆どなくなった。

いつどうなるか分からない子供の機嫌に合わせて動くというのが「専業主婦」、そして「母」である今の志穂の仕事なのだ。

ひなは可愛いが、意思の疎通がまだ完璧に取れない娘を相手に1日を無事に乗り切るだけで、どっと疲労を感じる。

これなら仕事をしていた方が何倍も楽であった、と志穂は思う。

にも関わらず、だ。

こうして自分の好きなことを好きな時にすることも叶わず、幼い娘の世話をこなし家族に尽くす自分は、お給料を貰えるわけではないのだ。

確かに生活費の苦労はしなくても良いかもしれない。

だが、家計の管理を任されているわけではない志穂は、康介から渡される月々のお金で食費やら生活費を工面しなくてはならない上、美容院に行ったり自分の洋服を買いたければ、予算と相談だ。

大きな買い物も、いちいち夫の了解を得なくてはならない。

子供が産まれたばかりの時は、とにかく育児に夢中で1年はあっという間に過ぎていった。

だが、ひなが1歳半を過ぎ、まとまった睡眠が取れるようになり、比較的クリアな頭で考えるとどうも納得のいかないことも多い。

仕事が忙しい康介は、育児の大変さを訴えてもまともに取り合ってくれなかった。

仕事が大変なのはわかっている、でも自分だって大変なのに…と納得のいかない気持ちを抱えていると、些細なことでも大喧嘩になってしまう。

ハッキリ言って、夫婦仲は順調とは言えない。

「私、間違ってたのかも。」

子供を産んだことは、1ミリだって後悔していない。ひながいない生活、人生なんて全く想像できないからだ。

独身時代に戻りたいわけではなく、自分が自分の人生をコントロール出来ていないと感じられる、今の状態が不満なのだ。

ひなが起きる前にコーヒーでも飲もうと沸かしたお湯が湧いた途端、寝室から「ママ〜!」という叫び声が聞こえた。

志穂はその日2度目の大きなため息をついて、重い足取りで寝室へと向かった。


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