女性の結婚率は、35歳を境に急激に下降する。

東京で、まことしやかにささやかれる言葉だ。

他にも、身体の変化、実家の問題、将来への不安と、目を背けたいことが増えてくる年齢でもある。

だがしかし。そんな悲観を抱くことは一切なく、麗しき独身人生を謳歌する女がいた。

恭子、35歳。

彼女が歩けば、男たちは羨望の眼差しで振り返り、女たちは嫉妬する。

恭子は一体、何を考えているのか?


今日は、恭子の新卒時代の同期・なつみが既婚者の目線から恭子を語る。



「なつみ、こっちこっち!」

甲高い声で名前を呼ばれた先に目をやると、テーブルには大きく手を降る2人の女の姿があった。

今日は、新卒時代の元同期メンバーで食事をするため、ここ『トゥールームス グリルバー』に集合している。

私は大学卒業後、某外資系ラグジュアリーブランドに就職した。世界の誰もがご存知の、一流ブランドだ。

同期100名のうち、今でもこうして親交が続いているのは、内定者時代に意気投合した4人組。

当時は大流行していた海外ドラマに憧れて、自分たち4人組のことを「SATC会」とか名付けてはしゃいでいた。

私は、入社3年目にして寿退社した。広告代理店で働く5歳年上の夫とは食事会で知り合って、交際1年で結婚。結婚後はすぐに子供を授かった。

あれから12年。

今目の前にいる2人も、30歳目前に滑り込むように結婚を決めて、落ち着いた。

もうあの頃のキャリーもミランダも、ここにはいない。

「そうそう、今日は遅れて、恭子さんも来られるって!」

その名を耳にし、メニューを選ぶのに没頭していた私は思わず顔をあげた。

「えっ、あの、恭子さんが…?」


なつみの幸せを脅かす、恭子という存在

誰よりも早く「安定」を選択した、順調な女の人生


4人組の最後の1人・恭子は、在学中に1年イギリス留学したため、皆よりひとつ歳上だ。さらに内定当時から、ずば抜けて大人びた雰囲気が印象的だった。

それで誰からともなく冗談めかして「恭子さん」と呼び出したのが、そのままニックネームとして定着した。



1年に1度ほどのペースでこのメンバーでの食事を定期的に開催しているが、恭子はもう何年も姿を見せていない。

それはてっきり、彼女だけが独身のため肩身が狭いからだろう、と私は勝手に推測していた。

その恭子が珍しく、今日は顔を出すという。

「恭子さん、まさかついに結婚でも決まったとか…?」

思わず他の2人に尋ねたが、2人とも知らない、という表情で肩をすくめた。

「ところで、なつみ、お子さんは何歳になったの?」

「この春に小学生になったの」

満面の笑みでそう答えると、現在揃って妊活中だという2人は羨ましそうにため息をつく。

「もう小学生のママなのね。なつみはいつも私たちの何歩も先を余裕で歩いていて、本当に絵に描いたような、順調な人生よね」

幾度言われてきただろうか、決して聞き飽きることのないこの褒め言葉。

女友達から羨望の視線を浴びれば浴びるほど、誰よりも早く「安定」という道を選択した私の生き方は間違っていなかったのだと、改めて実感できる。

私はうわべばかりの謙遜の言葉を返しながら、満足してひとり頷いた。

そのときだった、恭子が現れたのは。

「遅くなって、ごめんね!」

ミーティングが長引いちゃって、と申し訳なさそうに言いながら椅子に座る彼女は、息を飲むほどに美しく、35歳という年齢を微塵も感じさせない若々しい肌を保っている。

他の2人にそっと目を遣ると、目尻の小さなしわや、まるみを帯びた顎のラインが、出会った頃からの時間の経過をあらためて認識させる。

それにひきかえ恭子はどうだろう。あの頃からちっとも変わっていない、いやむしろ、格段に美しさに磨きをかけている。

そこからは、何年ぶりかに姿を見せた恭子の近況を聞くのに皆夢中になって、完全に彼女の独壇場と化した。

恭子は入社5年目の頃、ヘッドハンティングで同業界内で転職して、現在は3社目。イタリアに本社を構えるブランドでCRM&マーケティングのマネージャーを務めている。

いきいきと仕事の話をする彼女を見ていたら、私は突然、10年以上前の出来事を思い出した。

あれは入社2年目のとき。約100名の総合職同期は、ほぼ全員が店舗勤務でのスタートとなり、その後も本社に異動できる確率は決して高くない。

私は一刻も早く、店舗勤務から抜け出したかった。

社内公募でマーケティングの部署への異動を志すも、あえなく落選した矢先に耳にしたのは、恭子の同期最年少の本社への抜擢だった。

悔しさを噛み締めながら仕事していたあの頃。そんな時に今の夫に出会って、順調に結婚が決まった。

それ以来、心にぴたりと蓋をして忘れかけていた、キャリアでの成功への憧れ。

それが10年ぶりにむくむくと広がって、灰色の雲みたいに私の心を覆い尽くした。


このあと女たちはバースペースへ移動し、何かが起こる…?

居てもたってもいられなくなって、思わず話題を変えた。

「恭子、恋愛の方はどうなの?結婚の予定とか無いの?」

すると恭子は少し照れるように目線を逸らし、言葉を濁す。

「うーん…どうかなあ。特に報告すべきことは、何も」

そう言いながらも、決して男性には困っていないのだろうと想像させる、余裕の微笑を顔に浮かべている。

デザートまで食べ終えたところで、突然恭子が悪戯っぽい表情で囁いた。

「ねえ、まだ時間も早いし…このあと隣のバースペースに移動しない?」

『トゥールームス』にはダイニングスペースに併設してバースペースがあり、週末はかなり多くの人で賑わい、ちょっとした出会いの場にもなっている。

「いいね!トゥールームスのバーなんて独身以来で、なんだかワクワクしちゃう」

他の2人ははしゃぎながら、独身時代の懐かしい武勇伝で盛り上がっているが、20代後半を育児に追われて過ごした私はさっぱりついていけなかった。


夜のバーで痛感させられる、女の格の違い


バースペースは、エネルギー溢れる男女が集う空間だ。

そこにおそるおそる足を一歩踏み入れた途端、ふと小さな疑問を抱いた。

—私はまだ、女として通用するのだろうか?

誰よりも早く家庭に入り、女としての魅力を確認する機会がなく過ぎ去った20代。それを今夜取り戻せるかもしれないという淡い期待が胸をよぎった。

しかしそんな希望も虚しく、私たちは、特に男性から声をかけられることはなかった。ただ喧騒の中でかき消されそうになる声を必死で張り上げてなんとか会話を保っている。

でも、恭子だけは違った。

モヒートを注文しに颯爽とカウンターまで歩く彼女の姿にちらちらと視線を送る男たち。

まるで若い女たちを蹴散らすかのように、彼女は一歩歩くごとに特別なオーラを放っていて、皆が目を奪われている。

私が決して味わうことのなかった女の全盛期の喜び。それを恭子はまさに今、堪能しているように見えた。

恭子との格の違いを見せつけられたような気がして、私はただ黙ってストローでモヒートをすすっていた。

そんな中、人ごみをかきわけて私たちの輪に近づいてくる男性の姿に気付いた。

20代後半くらいだろうか。整った顔立ちと洗練された雰囲気を纏った男がまっすぐこちらを見つめている。

彼は私の目の前まで来て立ち止まり、そして口を開いた。

「恭子さん。お疲れ様です」

「周平くん」

恭子は驚いていたようだが、しばらくしてはっと我にかえって、私たちに彼を紹介した。

「部下の周平くんよ」

そして2人は何かを話し込んでいた。恭子はいつもと変わらぬ表情を崩すことはなかったが、彼の視線は熱を帯びているように見える。

久々の人ごみと夜の雰囲気に疲れてしまった私は早々に店から退散した。

なんだか自尊心が傷つけられたように感じた、そんな一夜だった。

武蔵小杉の自宅に戻ると、夫はソファに横たわりTシャツの裾からお腹を出して爆睡している。結婚当時にイケメンだと皆から言われた夫も、今では40手前で文字通りただの中年の男だ。

夫の姿を見下ろしながら、先ほどバーで出会った恭子の部下との差に、思わずため息がこぼれた。

寝室をそっと覗くと、息子が布団にくるまれてスヤスヤと寝息をたてている。

今、目の前にいる宝物は、紛れもなく私だからこそ得られた財産だ。恭子には、家族だって子供だっていないのだから。

これでいい。私の人生は、絵に描いたような順調な人生なんだ。そうに決まってる。

息子の頭を撫でながら、私は自分に何度も言い聞かせていた。


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バーで出会った男・周平は上司・恭子のことをどう見ているのか。