港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

妻・利奈(りな)に突然離婚を切り出された夫・昌宏(まさひろ)。2人は別居を経て離婚する。それでもやりなおしたい、と夫が送ったLINEも、既読にならぬまま妻の携帯は夫の元へ戻ってきてしまう。そして、夫は最後の決意を固め、ある場所へ電話をかけた。

一方、離婚届を提出した後の利奈は…?



「これで手続きは終了です。お疲れ様でした。」

料金の支払いに訪れた弁護士事務所で、担当してくれた弁護士の坂井さんからの言葉に、私は思わず笑ってしまった。

どうかしたんですか?と聞かれ、笑ったことを謝りつつ、答える。

「区役所でもお疲れ様でした、って言われたなあって。皆さん多分、他にかけられる言葉が無いんだなと思うと、気を遣って頂いて申し訳ないなって気持ちになっちゃって…。」

私がそう言うと、机を片付けようとしていた坂井さんの手が止まった。

「どうかしました?」

今度は私が尋ねると、穏やかに笑いながらも熱のこもった声で、彼は言った。

「どんな事情であれ、一度はずっと共に生きようと決めた人と法的に別れる、離婚する、ということは、結婚した時よりもずっと多くのエネルギーを消耗します。実際そのやりとりに疲れて、離婚を諦める方もいらっしゃるくらいです。」

私が頷いたのを確認すると、さらに続ける。

「だから僕ら弁護士は…少なくとも僕は、離婚を選んで、新しい人生を始める権利を必死で勝ち取った人に、尊敬とエールの意味を込めてお疲れ様でした、という言葉を選んでいます。だから…お疲れ様でした、松坂利奈さん。」

旧姓で名前を呼ばれることに慣れずに、私はまた少し笑った。この選択が正しかったのか、そうでないのかは分からないけれど、今は坂井弁護士の「お疲れ様」だけで、救われ、その言葉が心に沁みる。

「色々、本当にありがとうございました」

私がそう言って頭を下げると、“とは言っても今回僕は、大したことしてませんけどね”と坂井さんが笑って、しんみりしかけた雰囲気を壊してくれた。

―この人に頼めて良かったな。

そう思いながら、私はもう一度お辞儀をして立ち上あがる。掛けていたコートを取ろうと歩きだした時、私の背中に坂井さんが声をかけた。

「実は、ご主人…元ご主人から預かっているものがあるんです。」

きっと驚いた顔で振りかえった私に、坂井さんはいたずらを仕掛ける子どものような顔で笑うと、こう続けた。

「受け取るか捨てるかは、利奈さんの意志を尊重して欲しいと言われたのですが。今の利奈さんなら、受け取られてもいいんじゃないかなと僕は思います。」

言い終えると坂井さんは、引出しから何かを取り出すと、立ちつくす私に近づいてきた。

カツン。

革靴の音が止まり、私が強引に握らされたもの、それは封筒だった。


昌宏が利奈の為に連絡した、意外な人物とは?

―俺、字が下手になったな。

何度書いても自分の文字が気に入らず、愛用のパーカーの万年筆を便箋の上に投げ出すと、万年筆は勢い余って便箋の上を転がり、まだ乾いていなかったのか、書きかけのネイビーの文字が滲んだ。

―また、書き直しか。

苦笑いしながら、新しい便箋を取り出す。

初期化された利奈の携帯が戻ってきた時に、夫婦関係を修復することはもう諦めた。ただ、1つだけやり残したことがあることに気が付き、僕はまず利奈の弁護士に電話をかけた。

受け取るかどうかは、利奈の意志で構わないので、最後の手紙を預けたい。そう頼むと、戦っていた時にはあんなに不遜な態度だった弁護士が、随分優しく承諾してくれた。

そして弁護士との電話を切った後、僕はさらに数人に電話をかけ、ある頼みごとをした。

自己満足と言われても、利奈の未来のためにできることは全てやって終わらせたかった。


利奈「私、がっかりしてるのかな」


弁護士事務所を出ると、私は急いで表参道の駅に向かった。一刻も早く家に帰り、この封筒を開けたい。外で開ける勇気は無かった。

―何て書いてあるんだろう。わざわざ手紙なんて…。

電車の中で、ぐるぐるとそんな事を考えてしまうのを止められなかった。

坂井弁護士が強引に、私の手に握らせてくれたことにも感謝していた。

私に選択権を与えられれば、私はきっと意地になって手紙を受け取らなかっただろうから。

表参道から2度乗り換え、最寄駅から家に到着すると、鍵を開けるのももどかしく思いながら部屋に入る。

買ったばかりの小さなテーブルの上に、今朝飲んだコーヒーのカップを置きっぱなしだった事に気が付いたが、コートを着たまま座りこみ、バッグの中から封筒を取り出す。

はさみが無くて、中身を破かないように手で慎重に封を切った。

中に入っていた便箋は1枚。

手触りだけで良質だと分かる紙を、1度、ギュッと目をつぶった後、思いきって広げた。



“利奈さま”と書かれた後2行開けて、濃紺の文字が、びっしりと続いていた。

『利奈さま


こんなに不安な気持ちで、手紙を書いたのは初めてです。

もちろん君に、読んでほしいと思っていますが、君にとっては僕からの連絡は、もうただの迷惑かもしれないから。

でも、これで本当に最後にするから、安心してください。

今更、余計なお世話かもしれない、と思いましたが、婦人科の医者になった幼馴染に連絡を取りました。

彼に相談して、日本で1番と言われる不妊治療の権威の先生を紹介してもらったので、連絡先を書いた紙を同封します。』


同封という言葉に、封筒を逆さにすると、名刺サイズのカードがハラリと落ちた。

そこには、誰もが知る病院の名前と医師の名前、そして医師の携帯番号らしき数字が書かれていた。

予想もしなかった文面。

私は、思考が停止しそうになるのを必死にこらえながら、その先を読み続けた。


手紙読んだ利奈は、思いもよらない自分の感情に戸惑う

『先生には僕が1度連絡をとり、もし君から連絡があれば治療の相談に乗ってくれると約束してくれました。

もし君がこれからまた治療をしようと思う時がきたら、相談してみてください。勿論、君の気が向いたら、です。いらなければ、この手紙ごと捨ててください。

君の願いを外してばかりだった僕だから、今度も見当違いで、余計なことをしていたら、ごめんなさい。

君が本当に何を望んでいたのか、理解しようとしなかった僕は自分の意志ばかりを優先し、夫婦2人で考え一緒に成長する、ということを怠ってきたのだと今更ながら思い知り、反省の日々です。

僕と離れた君の幸せを、まだ素直には祈れない、というのが今の僕の正直な気持ちですが、君が悲しむのは嫌だ、とも思います。だから、やっぱりできるだけ笑っていてほしい。

利奈さん、4年間本当にありがとう。 今度こそ、さようなら。お元気で。』


最後は、彼の名前で締められた手紙を読み終えると、濃紺の文字が滲んで、私は慌てて涙を拭う。

それでも間に合わず、ポツ、ポツ、と優しい雨のような音をたて、また数か所、彼の文字が滲んだ。



彼の心遣いに素直に感動し、利奈さん、という他人行儀な言葉に彼の決意も感じた。そして、私は自分の中に生まれた思いもよらぬ感情に動揺してしまう。

―私、がっかりしている…のかな。

この手紙に、藍子さんが言っていた、彼が私の携帯に送ったというLINEの言葉が書かれているのではないか、と期待していた自分に気が付いてしまった。

―今更なのに、私、何を思ってるんだろ。

彼がメッセージを送った時には、私が気が付かず、私が求めた今、彼にとってはもう過去のことになっている。

悲しいけれど、それが現実。

私は、手紙をそっと封筒に戻した後、胸にギュッと抱きしめた。


昌宏「送り主は利奈からだった」


「社長、最近わざと忙しくしようとしてません?」

ミーティング終わりの秘書の言葉に、社員たちが口々に同調する。

あーうるさいよ、と言いながら昌宏は笑ってみせる。

「妻に捨てられた傷心を、仕事で紛らわしてんの。会社の業績も上がるんだからいいだろ?」

僕の言葉に、部下たちが笑いながらデスクに散って行く。

それを見届けてから社長室に入る。妻に手紙を送ってすぐ、僕は、会社の幹部たちには自分が離婚したことを発表した。

一瞬の沈黙はあったものの、社員たちは「昌さんみたいなハイスペックな男でも捨てられることあるんですね」などと茶化してくれて、ホッとした。

ふと、デスクの上でプライベート用の携帯が鳴った。きっとまた、パーティという名の食事会の誘いだろう。

―そろそろ、参加してみるか。

そんな気持ちで携帯を手に取ると、やはり食事会の誘いのLINEだったが、ふと、知らない番号からショートメールが届いていることに気が付いた。

ショートメールは、今はほとんど使っていない機能だったので迷惑メールかな、なんてことを思いながら何気なく開いた僕は、固まってしまった。

昨夜23時過ぎの通知。送り主は利奈からだった。


元夫婦の、お互いの感情がようやく交わる時

利奈「これが本当に最後の連絡です」


今度こそ、彼の最後のメッセージを受け取った、ときちんと伝えなければ。

返事を出そう。

そう思い、紙を書き始めたものの手書きだと字に納得がいかず、文章もまとまらず書き直してばかりで一向に進まない。

このままではいつまでも出せない気がして、私は藍子さんに彼の電話番号を尋ねた。藍子さんは何も言わずに、ただ番号を教えてくれた。

携帯番号を登録すれば、LINEのIDが分かるんだろうな、とも思ったけれど、何となく自分の携帯には、もう彼の番号を登録してはいけない気がして、ショートメールを打つことにして画面を開いた。


『手紙、受け取りました。

不妊治療の先生、紹介ありがとうございます。時期が来たら、相談させて頂こうと思います。全然、見当違いなんかじゃありません。お心遣い嬉しかったです。

昌宏さんは、私に笑っていてほしいと書いてくれたけど、私もあなたに対してそう思います。思えば、あなたの心からの笑顔を最後に見たのはいつだったでしょう。笑いあえない夫婦だったことに、申し訳なくなります。ごめんなさい。

あなたの手紙にもありましたが、私も自分のことに精一杯で、2人で一緒に成長する、ということを思いつきもせず、一人よがりで愚かでした。

でも、あなたと結婚したから、今の私がいます。

あなたとの日々が私を変えてくれた。

幸せな日々も確実に存在したし、色々なことを教えてもらった4年間、本当に感謝しています。

手紙、大切にします。これから何度でも、見返すつもりです。あなたを傷つけて、別れたことを忘れないように。大切な人と向き合えなかったという同じ過ちを繰り返さず、前へ進みたいと思います。

このメールを本当に最後にしようと思います。返事はもう出さないで下さい。

昌宏さん、本当に4年間、ありがとうございました。

お元気で。さようなら。』


打ち終わった勢いのまま、送信ボタンを押す。送信完了の画面を確認して、携帯を伏せてテーブルに置いた。

カタン、と言う音が狭い部屋の中で、やたらと大きく響いた気がした。


昌宏「僕もこのメールを大切にするよ」


―今度は、ちゃんと届いたんだな。

ショートメールにも関わらず長文の連絡に、利奈が必死で伝えようとしてくれている、真摯な思いを感じる。

最後の最後になってしまったけれど、僕らはきちんとコミニュケーションがとれたんだ。そう思うと嬉しくもあった。

―あなたと結婚したから、今の私がいます。

彼女のその言葉に救われた。僕との結婚生活が、全て無駄だったわけではない。そう言われたような気がして、ホッとする。

―僕もこのメールを大切にするよ。

女子高生みたいだなと思いつつ、画面をスクリーンショットする。

カシャッ

長いメールを何度かに分けて撮り、最後の1枚を撮った音が、ノックの音と重なった。社長室のドアが開き、秘書が顔を出す。

「車、下に回しておきました。」

打ち合わせに出発する時間だと告げられ、コートを羽織って外に出る。

後部座席のドアを開けて待っていた運転手が、僕の顔を見るなり言った。

「何か、いいことがあったんですか?」

どうやら、僕は笑っていたらしい。少しだけね、といいながら、僕は車に乗り込んだ。

―利奈も今、同じ気持ちで笑ってくれてると良いけど。



窓の外、流れる東京の景色を眺めながら、祈るような気持ちでそう思っていると秘書から、打ち合わせ内容の再確認を、と書類を渡された。

―きっとこうやって、彼女のことを思い出す時間が、少しずつ、減っていくんだろうな。

僕は、ゆっくりと利奈のことを頭から追い出しながら、書類に目を落とした。

Fin.