―あの頃の二人を、君はまだ覚えてる...?

誰もが羨む生活、裕福な恋人。不満なんて何もない。

でもー。

幸せに生きてるはずなのに、私の心の奥には、青春時代を共に過ごした同級生・廉が常に眠っていた。

人ごみに流され、都会に染まりながらも、力強く、そして少し不器用に人生を歩む美貌の女・里奈。

運命の悪戯が、二人の人生を交差させる。これは、女サイドを描いたストーリー。

7つ年上の直哉との結婚した里奈は裕福な専業主婦生活を満喫するものの、サークルの同窓会で再会した廉と結ばれてしまう。

二人の関係は直哉に勘づかれ、さらに廉の妻・美月からも電話がかかってきた。



「私、一条美月、と申します」

その名前を聞いた瞬間、背筋に戦慄が走った。

自宅の固定電話を鳴らしたのは、廉の妻・美月だったのだ。

「ご無沙汰しております。以前は私たちの結婚式に出席して頂き、ありがとうございました。あの...私がご連絡差し上げた理由は、お分かりですよね」

美月は相変わらず柔らかな声で言うが、その裏には明らかに憎しみが滲んでおり、受話器越しに緊張感がピリピリと張り詰めていく。

「......」

驚きと動揺のあまり、私は声を発することができない。

しかも書斎では、仕事で問題を抱えた夫が珍しく弱っている。ここで下手な発言をし、美月を刺激して修羅場になってしまうのだけは避けたかった。

しかし混乱した頭では、最善の対処法など分かるわけもない。

「あなたはご自分の立場を、わかってます?」

美月の口調はまるで談笑でもするような穏やかさで、それがかえって私の恐怖心を煽る。

そして私がなおも返事ができずにいると、彼女は受話器越しにクスクスと小さな笑い声を立て、楽しそうに言った。

「...可哀想な里奈さん」


夫を盗られた妻・美月の、不気味な脅迫が始まる...

愛人への脅迫


「...可哀想な里奈さん」

美月は歌うようにそう言ったあと、柔らかな声のまま、しかし少し早口で私にいくつかの忠告をした。

彼女は私と廉が頻繁に連絡を取り合っていることも、東京で何度も会っていることも以前から事細かに把握し、その証拠さえ手にしているという。

そして、私の自宅の電話番号はもちろん、住所も直哉の情報も全て控えているとも言った。

「一時的な熱に浮かれる気持ちは...、私も分からなくはありません。それに里奈さんは、ご主人ともあまり上手く行ってないと伺いましたし...」

美月にそう指摘されると、耳のあたりがカッと熱くなる。情報源が不明な分、同時に薄気味悪さにも襲われた。

「でも廉と私は...、実は最近、真剣に子作りを計画してるんですよ」

「え...」

「あら、やっぱりご存知なかったですか?男性は女性と違って、そういう所、すごくズル賢いですよね」

美月は鈴が転がるような声で笑うが、何が可笑しいのかさっぱり分からない。視界が、少しずつ暗くなる。

「だから...という訳ではないですが、里奈さんにはそろそろ自粛して頂きたくて。そちらも、余計なトラブルは避けたいでしょう?よろしくお願いしますね。それでは、失礼します」

小さな子どもを諭すような優しい声だったが、美月は明らかに私を脅迫していた。

そうしてこの不気味な電話は、一方的に切れた。





「リナ?」

あの電話から、どのくらいの時間が経っただろうか。

しばらく放心状態に陥っていた私は、直哉の声で我に返った。

「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ」

夫は憔悴しきった顔で、小さく微笑みながら私の頭を撫でる。

「直哉、あの...」

「万一最悪の事態になってもさ、リナには迷惑かけないから安心しろよ。メシ、軽くもらっていい?」

どうやら直哉の目には、私が彼の会社の経営不振を心配している風に映ったようだ。私はまだ身体に染み付いている廉の感触を思い出し、初めて罪悪感を抱いた。

「うん...」

そして直哉は「旨い」と何度も口にしながら、私の用意した料理に意外なほどの食欲を見せた。

その様子を見ていると、私の心はさらに複雑に歪んでいく。

数日前まで、あれほど嫌悪感を抱いていた夫。

だが、こうして弱った姿を見せられると、胸が締め付けられるように痛くなる。

さらに直哉は、私が真夜中にホテルにいたことを以前のように高圧的に問い詰める様子もなかった。

単純に“妻の浮気疑惑”になど労力を割く余裕も時間もないだけかも知れないが、その態度はかえって、今の彼が私を切に必要としているようにも思える。

「ねぇ直哉。大変なときに、私...ごめ...」

「今は、いいから。とりあえず、しばらく不良妻は封印しといて」

謝ろうとする私を直哉は強く遮り、覇気のない顔で薄く笑った。

そして皮肉なことに、このとき私は今更ながら、自分はこの男の“妻”なのだということを強く認識させられたのだ。


徐々に目が覚め始めた里奈。廉との別れを決意する...?

女の決意と、男の衝動


それから暫くの間は、気味が悪いほど穏やかで静かな日々が続いた。

二人で示し合わせた通り、廉との連絡はパッタリと途絶え、美月の電話もあれっきり。

直哉は仕事に忙殺されていたが、一族の助けもあり、会社は致命的な危機をどうにか乗り越えたようだった。

私にはよく分からないが、代々続く金持ちというのは、揺るぎない力とコネクションを持っているらしい。

そして一方の私は、心の中で“ある決意”を固めていた。




「...で、どういうこと?」

初めて結ばれたセルリアンタワー東急ホテルの一室で、廉はほとんど怒ったように言った。

「もう終わりにしたい」と電話で告げると、彼は私が予想した以上の抵抗を見せた。「とりあえず会って話そう」と、翌週には出張にかこつけて東京に戻ってきたのだ。

窓の外には、夕焼けの美しい空が広がっている。

この景色が夜景に変わる前に、何としてもこの部屋を出なければならない。そうでなければ、私たちはまた愚かな罪を犯し続ける確信があった。

「もう、いいかなと思って。旦那の目があるから、今までみたいに連絡も取れないし。そもそも不倫で遠距離なんて、よく分からないじゃない」

私は努めて明るい口調を心掛けたが、“不倫”という言葉を口にした途端、心がねじ切れそうに痛んだ。そんなんじゃない、と、自分の中の知らない女がしきりに訴えているような気がする。

「...勝手に一人で決めるなよ。何だよ、未来がないとか、そういうのが嫌だってこと?」

―子作りまで、してるくせに。

喉元まで出かけた言葉を、ぐっと飲み込む。

廉の口ぶりを聞く限り、美月が私に電話を寄越したことは知らないようだ。

だが、彼の妻から忠告を受けたことを伝えるのは、あの女に負けるような気がして癪だった。

同様に、まだスランプ状態から完全には回復していない夫を支える決意をしたことも、廉に明かすつもりはなかった。

少し前まで、廉と私は心も身体も深い絆で結ばれ、この世界で彼だけがたった一人の味方だと信じていた。

でもいつの間にかそんな幻想は風化し、私は以前の強がりなだけの女に戻っていたのだ。

廉のことを、そして誰より自分のことを、すでに信用できなくなっていた。

「ううん。でも私たち、そんなに深入りする関係じゃないでしょう。元々、友だちだし」

自分の言葉が、刃物のように自分の胸を切りつけていく。

廉の目を見ることはできなかったが、彼も同じように私の言葉に傷ついているのが手に取るように分かる。

「だけど、すごく楽しかったよ。なんか、学生時代に戻ったみたいだったよね。ありがとう。じゃあ...」

そうして背を向けると、身体を強引に引き寄せられた。

「ちょっと待てよ。俺は絶対に嫌だ」

廉は感情的に言うと、私をベッドに押し倒し、無理矢理に唇を重ねようとする。

「だから、やめて!もう、こういうのは嫌なの!」

その身体を、精一杯の力で突き飛ばした。

廉はそんな私を、怒りと悲しみが混じったような顔で見つめている。

しばしの沈黙が部屋の中を包み、二人の荒い息遣いだけが静かに響いた。


そして私は、このあと廉が絞り出すように言ったセリフに、どうしようもなく心を揺さぶられることになる。


「俺...、離婚したっていい。里奈と別れるくらいなら、今の生活なんか全部手放したって構わないよ」


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「離婚したっていい」廉が、その言葉を口にした背景にあった事情とは...?