―私は私。他の誰とも比べたりしない。

結婚して、出産する前まではこんな風に考えていたのに。

子供を持ち母となって、劣等感と嫉妬心に苦しめられる女たち。

未だかつてない格差社会に突入した東京で、彼女たちをジワジワと追い込むのは「教育格差」だった。

結婚により生活レベルが下がってしまった佐々木エミ。

夫と娘を愛しているのに、森田実沙子との再会によって、教育格差を実感。焦燥感や共働きのストレスにより、家庭は壊れかけていく。

一方で、金銭的な不安を持たず日々を過ごす持つ実沙子だが、夫の浮気疑惑が発覚。さらに幼稚園受験や妻・母としての重圧により円形脱毛症を発症するなど精神的に追い詰められていた。

お互いに生活環境の違いが目につき始めるも、なぜか仲の良い2人の娘たち。

良い母になろうともがく2人の女の人生は、ますます混迷を極めていくのだった。



私は、なんでも知っているのよ


「実沙子さんは、本当によくやっているわ。私、あなたのこととても凄いと思っているのよ」

最近のお義母様は、特に用事がなくても我が家に来たがります。

私がきちんと幼稚園受験の準備をしているか、みなみの様子がどうなのか、気になるのでしょう。

私の努力を認めてくださるのも娘と遊んでくださるのもとても助かるのですが、お義母さまがいらっしゃる時は、出来るだけ良い母でいようと、余計に背中に緊張が走ります。

お義母さま世代の方が喜ぶような献身的な母親像を無理に演じ、帰宅された途端、抜け殻のようになる。

ー自己犠牲の精神で、子供に尽くす母親こそ素晴らしい。

母親が自分の人生を諦め子供に全てを捧げることが良しとされ、我慢を美徳とするこの国の人たち。

そんな価値観、一体誰が決めたのでしょうか?

そして、なぜそんな価値観に縛られなくてはいけないのでしょうか?

正解がわからないまま日々子育てに奔走している私は、ついつい注意散漫になっていました。

「ねぇ、実沙子さん、最近あなたとても楽しそうよね。前よりも肩の力が抜けている感じがする。やっぱりみなみちゃんを預けて1人の時間を楽しんでるからかしら…?」

お義母さまは、とても優しい声で仰いました。私がみなみを預けているのは平日のほんの数時間のこと。昌幸さんには内緒にしていたはずです。

それなのに、なぜお義母さまそのことをご存知なのでしょうかー。


義母からの驚きの一言。実沙子は、どう反応する?

結果さえ出せばいいの。結果が全てなの。


シンとした部屋で、みなみがおもちゃをガチャガチャと鳴らす音だけが妙に大きく響きます。

私がいつまでも答えないので、お義母さまは我慢できないといったご様子でした。

「それはとっても良いことなんだけどね、私なりのアドバイスをさせてもらえないかしら」

そう言って、お義母さまは、にっこりと微笑みます。

「母親って、背負わなきゃいけないものが多くて本当に大変よね。だから、息抜きをすることに関しては、私は賛成なのよ」

お義母さまは、私の手を握らんばかりの勢いです。

「ねぇ、何をしてもいい。結果さえ出せばいいの。みなみちゃんをきちんと昌幸と同じ幼稚園に入れてくれれば、私は何も言うことなんてないもの。

ただね、あまり人目にああいう姿を見られるのも困るから、もう少し遠くのお店に行ったらどうかしら?このエリアだと、どこで知り合いが見ているかわからないじゃない」

あまりのことに、私は小さく頷くことしか出来ませんでした。

お義母さまとのこの会話で、2つのことがわかりました。

まず、私が週に1度、誰にも言わずに工藤くんに会いにカフェ通っているのがバレていること。

そして、受験の失敗は絶対に許されないということ…。

それだけ言い終えると、お義母さまは何事もなかったように、持ってきてくださった『アンティカ・オステリア・デル・ポンテ』のアーモンドビスコッティを私に勧めて下さいました。



私はめまいが起きそうになるのをなんとか堪えながら、洗面所に駆け込みます。

せっかくの心の支えを失ってしまった。そして、私は絶対に娘の受験を成功させなければいけない。

みなみは少し、疳(かん)の強いところがあります。じっと座っていることも苦手ですし、何か少しでも気にくわないことがあると怒って泣き叫び、お教室は大嫌い。

なだめてもすかしても何をしても、一旦機嫌を損ねるとそこから気分を立て直すのに膨大な時間がかかってしまいます。

ーエミが羨ましい

ふと、りあちゃんと遊ぶみなみの子供らしい顔を思い浮かべ、受験などとは無縁にのびのびと保育園で子どもを育てているエミが羨ましくて仕方なくなりました。

保育園では、子供は自由に遊び、散歩をしたり、お昼寝をしてのびのびと過ごす。トイレトレーニングさえしてくれるんだそうです。

そんな環境だからか、りあちゃんはとても活発で、優しい子です。

こんなにも愛情を注いでいるのに、お靴を履こうという簡単なお願いを聞いてくれずに泣き叫ぶ我が子と、どうしても比べてしまう。

エミには素直な娘さんに素敵なご主人もいて、キャリアも手放さず、美しいまま。

私だって、何か一つくらい、エミよりも秀でていたい。

私はお義母さまから呼ばれるまで、洗面所でずっと自分の姿を見つめ続けていました。

ですがしばらくすると、心の奥底から、ある感情がむくむくと湧いてきたのです。

ーこのまま、負けてたまるもんですか。

すると、鏡の向こうでメソメソと泣いていた女は、見たこともないような強い表情になりました。

その姿は、まるで自分とは思えません。

そしてその日から、受験を迎えるまでの長い間、"その女"は私とみなみを守り続けてくれたのです。


一方、子供を介してのみの会話を続けていたエミの家庭は…?

成長し、家庭不和に敏感になる娘


「ママ、ねぇ、こっちに来て」

リビングで夫と塗り絵をしていたりあが、料理をしている私を呼んだ。みんなで一緒に塗り絵をしよう、ということらしい。

天使のような笑顔でクレヨンを握りしめ、"パパ"の元へ私を連れて行こうと、こちらをじっと見つめているのだ。

仕事と家庭の両立に奮闘していると、月日が過ぎ去るのは早く、娘はあっという間に3歳の誕生日を迎え、喋る言葉が格段に増えた。それに、こちらが驚くほど周囲の状況を理解しているようだ。

私も、育児をしながら仕事をこなすことには大分慣れ、以前のようにりあがしょっちゅう体調を崩すことはない。

だがー。

相変わらず私たち夫婦の関係は安定しないままだった。



お互い娘を溺愛しているため、仕事も真面目にこなし、帰宅も早く、家庭の外に目が向いているわけではない。

ただ、夫婦が仲睦まじく過ごすということはなかった。

激しく言い合いをするわけでもないし、娘への声かけは親バカだと思われるほどに暖かい。だが、不自然なほどに会話をしない父親と母親の様子に、りあは3歳児ながら気付いているのだろうか。

ーこんな状況が、娘に良いわけがない。

健太も私も、りあのためにと同じ目標に向かって頑張っているはずなのに、肝心の自分たちはお互いを見ていないのだ。

塗り絵をする2人を見ながら、いったいどうしてこんなことになってしまったのだろうかと考える。

そして、りあが寝た後に、意を決して健太に気持ちを打ち明けた。

「ねぇ、健太」

りあが寝てしまった後は、たとえ同じ部屋にいてもお互いスマホかPCを見ており、会話をすることはない。健太は驚いた様子でこちらを一瞥すると、ぶっきらぼうに「なに」と答えた。

せっかく歩み寄ろうとしていても、相手にその姿勢がなければ意味がない。

今まではそんな風に思い、健太と話すのを避けてきたが、既にいろいろなことを理解しているりあのためにも、夫婦仲を修復させたいと思ったのだ。

「私たち、このままじゃ駄目だよ。りあのためにも、ちゃんとしよう」

相当の勇気を持って打ち明けたにも関わらず、健太は「今さら、何言ってんの」と冷たく言い放ち寝室に行ってしまった。

どうしようもないほどに傷つき、1人リビングに取り残される。

しばらくテーブルを見つめていたが、ふと一度会ったことがある実沙子の夫のことを思い出した。

ニコニコとした笑顔で、実沙子とみなみちゃんを迎えに来たご主人。カジュアルだが一目で高品質なものとわかるファッションで、知性にあふれ落ち着いていた。

最近みなみちゃんは、ご主人も通っていたという有名な私立の幼稚園に合格したそうだ。

受験には随分と苦労したそうだが、移動は常に車で、家事のお手伝いをしてくれる人も雇っている実沙子の生活はただただ眩しかった。

恵まれた者だけが歩むことのできる道を着実に進み、優しく理解のある夫がいる実沙子。

夫婦関係を犠牲にして働いても、自分たちには到底あのような暮らしを選択する自由はない。

私は現実から目を逸らし、みなみちゃんの通う予定の制服に身を包んだりあの手を引き、実沙子のような格好で颯爽と歩く自分の姿を想像した。


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成長に伴い、本格的に格差の開いていく2つの家庭。娘に自我が芽生え、二つの家庭は複雑に絡み合う。