可憐な妻と優しい旦那。

わたしたちは、誰もが羨む理想の夫婦だったはずなのに。

若くして結婚し、夫の寵愛を一身に受ける真美・27歳。

鉄壁で守られた平穏で幸せな生活が、あることをきっかけに静かに狂っていく。

そしてやがて、気付くのだ。この男が、モラハラ夫だということに。


優しく穏やかなはずの夫・陽介が、ある夜から少しずつ変わっていく。

真美は違和感を感じながらも夫に従い続けるが、「それはモラハラだ」と親友から指摘された。

最後の希望を託して夫に本心をぶつけるが、願い叶わず、陽介が発した言葉に青ざめるのだった。



「ねえ、マミちゃん。最近の君はおかしいよ。僕のやることなすこと全てに文句をつけて、…一体、僕をどうしたい訳?」

ー僕がいないと、君は何もできない。

耳元でそう囁いた夫は、唖然とする真美の横に座り直すと、ワイングラスを手元に引き寄せ、口を近づける。

静かな物言いではあるが凄みを感じさせる陽介の目を、真美は直視できずに呟いた。

「…私はただ、もっと自由が欲しいって言ってるだけ。」

「ひとつ、外出は必要があれば許可している。ふたつ、夫が妻の心配をするのは当然だから、連絡をきちんとしてほしいと言っているだけ。…まあ、君は大抵、そんな簡単なことすら守れないけどね。」

腕を組み、ゆっくりと言葉を発する陽介は、目の前の妻を小馬鹿にするように、口元に薄ら笑いを浮かべている。

「で、でも、いつも外出するのをすごく嫌がるよね?それに、クローゼットに閉じ込めたし、スマホだって茹でたじゃない。全部、陽介さんがやったんだよ!私とても怖くて、な、何も言えなかったんだから…!」

真美は必死に反論するが、言葉を発しようとするたびに、声が震え涙がこぼれてしまう。

自分の夫はモラハラ夫なんかじゃない、そう信じて守り続けていた最後の砦が、夫本人によってガタガタと壊されていくのだ。

「うーん。そういうの、責任転嫁っていうんだよなぁ。」

陽介は肩をすくめると、真美をじっと見つめ、諭すように話し始めた。

「いーい?マミちゃん。閉じ込めたつもりなんて、僕にはないよ。君が夜中に事件に巻き込まれる危険性を回避しただけ。それに、非を認めればすぐに出られたのに、君は意地っ張りなんだから。

スマホだって、君の体調回復の妨げになっていたから、要因を排除しようとするのは当然でしょう。」

「…でも、そんなの、おかしい。だって逆の立場だったら、そんなことされたら嫌でしょ?」

真美の反論を聞いた陽介は、ハハハッと声を上げて笑うと、「やっぱり、君には本質が見えてないね」と言って真美の肩をポンポンと叩く。

「あのね、そもそも原因を作るからいけないんでしょう?僕はそんな馬鹿なこと、絶対しないもの。」

陽介は、自分の発言が当然正論だと言わんばかりに得意げな顔をしている。真美の胸につっかえた何かがどんどん膨らみ、息苦しくなっていった。

言いたいことは山ほどあるはずなのに、うまく言葉を紡げず口ごもる真美を前に、陽介はトドメを刺すように続けた。

「それにね、自由自由って言うけど、自由には責任が伴うんだよ。…ハァ、これは見せたくはなかったんだけど…」

陽介は、スマホをササッと操作すると、真美の目の前にすっと差し出した。

「ほら、これ。見てごらん。」


陽介が突きつけたスマホに写っていたものとは?

「マミちゃんには、何も気にせずに楽しく生活して欲しいから、見せるつもりはなかったんだけど。」

しぶしぶ、といった様子で陽介が差し出したスマホの画面には、家計簿アプリが起動されていた。

そこには、毎月の収入と支出が細かな項目ごとに整理されており、いつどこでいくら使ったのかが、詳しくわかるようになっていた。

「マミちゃんが何不自由ない生活を送っているのは、僕がきちんと君を扶養する責任を果たしているからなんだよ?」

スマホに記された収入額は、真美が以前聞かされていたものよりも、かなり多い。

昇進したのはもちろん知っていたが、陽介はお金の話をするのを嫌うため、詳しくは聞けなかったのだ。

家計管理はすべて陽介が行っており、真美にはクレジットカードが与えられている。基本的にカードで何でも買うことができたが、どうしても現金が必要なときは、事前に依頼すれば、陽介から必要な額の現金が与えられた。

日用品以外の買い物には、陽介とともに行ってから決めると言うルールはあったが、真美が望む大抵のものはすんなりと手に入った。



「もちろん、いい生活をさせてもらってることには、感謝しています。…でも、陽介さんは私が働くのが嫌って、そう言ったよね?」

真美は、もともと寿退社をする気はなかった。銀行の一般職と言えど、昔と違って結婚しても働き続けるのが普通だったし、当然仕事を続けるつもりだった。

しかし、真美がセクハラ発言を浴びせられても何も言えず、入社早々に結婚を決めたことに対する冷たい目線に耐えていると知った陽介が、「会社を辞めて、家庭に入って欲しい」と強く願ったのだ。

真美の実家は、決して裕福ではない。

万が一に備えて貯金もしたいし、大学時代に借りた奨学金も返済が始まったばかりだったため、真美は働き続けることを主張したが、陽介は頑なだった。

「お金の心配なんてしなくていい。すべて僕に任せて。」と言って手をぎゅっと握ってくれた陽介の熱い眼差しを、真美は虚ろに思い出していた。

「そりゃあ、精神的にも体力的にも、君のことが心配だもの。それに、マミちゃんが外で働いてもたかが知れているし。君に求められている責任っていうのは、そんなことじゃない。」

月々の生活費の支出を示す項目をスクロールしながら、陽介は大きなため息をつく。

「マミちゃんにはね、心安らぐ家庭を作るという、大きな責任があるでしょう。結婚の挨拶の時言ってくれたこと、嬉しかったなあ。一生陽介さんを陰ながら支えますって、僕の両親の前で、誓ってくれた。

なのに、最近の君ったら。スマホで僕に秘密の話をしてみたり、他の男と会ったことを隠したりさ。連絡が取れなくなった時なんて、心配で仕事にならなかったよ。こんな状態じゃ、僕の心は、全然安らがない。」

スマホをダイニングテーブルに静かに置くと、陽介は再び真美の正面に向き直り、腕を組んだ。

「責任を果たさずして、自由だけ欲しいだなんて。マミちゃん、よく言えるよね…。」

真美は、目の前で憐れんだように自分を見下す夫に、何も言うことができなかった。


一方、心配する友人が取った行動は?


「ねえ、やっぱりやばい状況よね?」

留衣が深いため息をついて、颯太に尋ねる。

真美が逃げるように留衣の家を飛び出してから、数日後、颯太は留衣と居酒屋に再び集合していた。

「新しい携帯番号、結局聞けなかったもんな。」

颯太は、苦い顔のままグラスを店員から受け取る。この状況で飲む気にはなれず、中身はウーロン茶だ。

ー愛情でなく、支配だ。

颯太がそう告げた時の真美の顔が、頭に浮かぶ。まるで睨みつけるかのようなあの目からは、夫を信じたいと願う彼女の本心が、透けて見えたような気がする。

真美から聞いた旦那の行為の数々は、颯太の感覚では間違いなく、"異常"だ。

だけど、当事者である真美が、嫌々ながらも夫婦の形としてそれを受け入れているのだとしたらー?

もしそうなら、自分はすごく失礼なことを言ってしまったのではないかとも思うのだ。

「真美の話、モラハラのオンパレードだったじゃない。当事者は、ことの深刻さに気づかない場合が多いって知り合いの医者も言ってた。でも、警察に相談に行くにも、本人が行くべきよね?暴力受けてるわけでもないし…。」

あの日以降、颯太も何度か「モラハラ」+「相談」で、ネット検索をした。

様々な相談先がズラッと並ぶが、そのほとんどが当事者からの相談を前提に説明がされている。それに、真美本人がモラハラ被害と認めていない以上、第三者がこれ以上口を挟むのも、気がひける。

「…とりあえず、連絡取ってみよう。例えばさ、真美の実家に電話して、連絡先聞いてみるっていうのはどう?同窓会やるけど、連絡取れないとかなんとか言って。」

「それいい!うちの母、真美母と知り合いだから、携帯知ってるかも!」

そういうと留衣は、すごい勢いでスマホにメッセージを打ち込み始めた。十数秒のフリック入力の後、留衣はスマホをしまい、言いにくそうに下を向いた。

「私さ、真美が結婚決めた時、正直悔しかった。ちょうど仕事がしんどい時期だっだから、専業主婦になるって聞いて、"のんびりなあんたには主婦業が向いてる"なんて嫌味言っちゃったのよね。久しぶりに会った時だって、専業主婦が羨ましいなんて言っちゃった。

あんな辛い思いしてるなんて知らずに。…酷いこと言っちゃった。」

留衣は、一気に気持ちを吐き出すと、ジョッキに残ったビールを喉に流し込んだ。その目にはうっすら涙が浮かんでいる。

「でもさ、あいつちょっと嬉しかったと思うよ。親友に"真美は悪くない!"って言ってもらえて。」

そういうと、颯太は店員を呼ぶブザーを押し、留衣にティッシュを手渡す。

「…今日は真美の分まで飲む」と、鼻をすする留衣に付き合って、颯太はビールを2杯注文した。


▶NEXT:1月31日 木曜更新予定
抵抗する術をなくした真美に、友人から救いの手が差し伸べられるが・・・