買い物は、魔法だ。

女は買い物という魔法を使って、“なりたい自分”を手に入れる。

ならば、どれだけ買っても満たされない女は一体何を求めているのだろう―?

32歳にして年収1,200万円を稼ぐ紗枝は、稼いだお金を存分に買い物に使う「カッコイイ女」のはずだった。

しかし、紗枝の向上心にも似た物欲は恋人・慎吾とのいさかいをキッカケに徐々に歪み始めた。

カードが停止するまで買い物をしてしまった紗枝は、ついに慎吾に禁断の借金の申し込みをしてしまい、浪費をやめることを決意する。

だが、超富裕層の個人投資家・喜多川に押し付けられた超高級腕時計が招いた誤解によって、紗枝は慎吾から別れを告げられてしまうのだった。

慎吾を失った紗枝は罵るつもりで喜多川に電話をかけたものの、紗枝の物欲を肯定してくれる喜多川の優しさに涙する。

紗枝の欲望の、行き着く先は?



「最低限の荷物だけ取りに帰って、あとは買えばいいよ」

ホテルのルームキーを受け取った紗枝はその言葉に従い、喜多川の運転するテスラの助手席に乗って自宅へ一時帰宅していた。

すでに夕方になっていたが、慎吾の帰ってきた形跡は無い。今朝別れ際に吐き捨てられた「しばらく帰らない」という言葉は、本当のようだ。

―私たち、本当に別れたんだ…。2ヶ月前にこの部屋に入居した時は、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。

紗枝はアルフレックスのソファに手を置くと、慈しむようにそっと撫でる。

大好きな慎吾との生活を夢見て買った、こだわりの家具や生活用品の数々。その洒脱さが、却って慎吾の不在を浮き彫りにした。

慎吾との思い出がないものを持って帰ろう。そう考えたものの、手に取るもの全てが慎吾を思い起こさせる。

結局、紗枝がホテルの部屋に持っていくことを決めたのは、社員証と保険証、急な出張に備えてのパスポートくらいだった。

―なんでも新しく買っていいのなら、本当に大切なものって意外と無いのね…。

そう自嘲気味に考えながらスマホを取り出した紗枝は、LINEを立ち上げると慎吾に向けてメッセージを打つ。

”私が他所に泊まるから、慎吾は自由に家を使ってください”

ソファに座りながらしばらく返事を待ってみたが、メッセージは既読になる気配すらない。

紗枝はため息をつくと立ち上がり、小さな荷物を持って玄関へと向かう。だがその時、紗枝の目にあるものの存在が飛び込んできた。


紗枝の良識が、麻痺していく

喜多川によって再点火された物欲


紗枝の目に留まったのは、リビングの端に置いた本棚だ。2冊の「星の王子様」が、互いに背表紙をピタリと添わせて並んでいる。紗枝と慎吾がそれぞれ持ち寄った思い出の本だった。

慎吾との思い出があるものは持っていかないと決めたばかりなのに…この本を置いていくことだけは、心が拒否する。

仲良く並んでいる2冊の本が、紗枝の心臓を深々とえぐる。紗枝は衝動的に自分の分の1冊を手に取ると、バッグの中に放り込んだ。

小さなバッグをひとつだけ持ってマンションから降りてきた紗枝を見て、テスラの中で待機していた喜多川はニヤリと笑う。

そして、助手席に紗枝を座らせるとアクセルを音もなく踏み込み言った。

「では女王様、浪費しに参りましょうか」



マノロブラニクのヒール。
マックスマーラのコート。
シャネルの化粧品。
大量のzaraのカットソー。

向かった先の銀座で、喜多川はまさに女王様への献上品のように紗枝に与え続けた。

喜多川の財産を好きなだけ使うと意気込んでいた紗枝も、その予想以上の羽振りの良さに臆しそうになる。だが、時折紗枝が「このくらいは自分で出す」と伝えても、喜多川はそれを頑なに許さないのだった。

「金のある男は、女性に金を出す義務じゃなく権利を持ってるの。…正直さ、独り身じゃ使い切れないんだよね。こうして紗枝ちゃんが幸せになるために使ってもらえたら本望なんだから、遠慮なく使ってよ。それとも何?嬉しくない?」

「いえ、そりゃ嬉しいに決まってますけど…。…なんだか怖い気がして」

「なに言ってるの。蝶には花。ワインにはチーズ。失恋には買い物。こんな日に買わないなんて、紗枝ちゃんらしくないね」

そう言われてしまえば、紗枝には何も言えない。喜多川は、滑稽なほど物欲が強い浪費家の紗枝が気に入っているのだから。

「さぁ、あと何が必要?」と、喜多川は銀座の街を先導する。紗枝はもはや麻痺してしまった感覚に身を任せ、流されていくのだった。

二人の狂宴は、多くのショップが閉店時間を迎えるまで続いた。テスラのフロントトランクに入りきらないほどの品物を手に喜多川と紗枝がリッツのレジデンスに帰り着いた頃には、すっかり夜になっていた。


喜多川がひた隠しにする、怒りと悲しみ

喜多川の「闇」が顔を覗かせる


「夕食、本当にこれで良かったの?『六本木 カッポウ ウカイ』あたりに行っても良かったのに」

「いえ、もうクタクタで。これくらいが丁度いいです」

Uber Eatsで頼んだイタリアンで遅い夕食を済ませると、紗枝は今日手に入れた品物の数々をうっとりと眺めた。

どれもこれも、憧れだった品物ばかり。紗枝がこれまでしていたように、ボーナス月や特別な業績をあげたタイミングなどの節目に買い物をしていたのでは、この全てを手に入れるのに5、6年はかかるだろう。

小型ワインセラーから出した軽めのピノノワールを楽しんでいた喜多川は、おもむろにグラスを置くと、購入したばかりのモンクレールのスプリングコートを取り出し紗枝の名を呼んだ。

「合わせてごらんよ」

紗枝はコクリと頷くと、促されるまま大きな姿見の前に立った。

紗枝の背後から、喜多川がコートを肩にかける。

「すごく似合ってる」

ふわりと軽いコートを肩に乗せられ、紗枝は自分の姿に見入った。ずっと購入を思い悩んでいた高価なコートも、喜多川にとっては靴下を新しく買うのと同じような感覚らしい。

「ありがとうございます…」

感謝の言葉を伝えようと、鏡越しに喜多川の目を見やる。だが次の瞬間紗枝は、思わずハッと息を飲んだ。

喜多川の目が、氷のように冷たく悲しげに見える。快活な光に溢れた普段の喜多川とは、まるで別人のような表情だった。

思わず気圧された紗枝はそっと喜多川の手を外すと、姿見の前から離れてわざと明るい声を出す。喜多川に、いつもの磊落な雰囲気を取り戻して欲しかったからだ。

「それにしても本当にすごいおうちですよね。ちょっと探検していいですか?あっちの部屋とか…」

だが、そう言いながら奥の部屋へ向かおうとした、その時だった。



「そこの部屋は入るな!」

喜多川は、ただならぬ様相で紗枝を牽制する。

「ご、ごめんなさい」

怒号と表現しても良いほどの厳しさをはらんだ声色に、紗枝は凍りついた。

しかし、この不穏な空気に最も戸惑っているのは、他でもない喜多川自身であるようにも見える。喜多川は、取り繕うかのように優しい声で弁明を始めた。

「いや、ごめん。そこはさ、仕事の部屋だから。モニターとか、触ってほしくないものがたくさんあるんだよ。その部屋以外ならどこに入ってもいいよ」

いつも以上に飄々とした態度をとりながらも、紗枝を玄関の方へと誘導する。

「さぁ、今夜はもう遅いから部屋に戻りなよ。怒涛の1日でさすがに疲れたでしょ。紗枝ちゃんの気持ちが本当に僕に向いたら、この部屋に泊まって。そんなに簡単には切り替えられないと思うし」

「あ…はい…」

先ほどの異変が嘘だったかのように、喜多川は流暢に言葉を続けた。

「それから…明日も一緒に過ごそうと誘いたいところなんだけど、あいにくどうしても外せない予定があるんだ。悪いけど一人で過ごせるかな?お金は好きに使っていいから、エステとか買い物とかして過ごしてよ。じゃ、おやすみ」


なにも考えずにいられる。買ってさえいれば

買い物の魔法で、現実から目を背ける


喜多川の部屋から追い払われるようにホテルの部屋へと入室した紗枝は、ベッドに身を横たえた。床には、ポーターが運んでくれた買い物の品がひしめいている。

思えば、ゆっくり落ち着いて一人の時間を持つのは本当に久しぶりだ。喜多川の言う通り、怒涛の1日を過ごしたあまり紗枝の心身は酷くくたびれていた。

手持ち無沙汰になった紗枝は、ポケットの中からスマホを取り出す。

慎吾に送ったLINEは未だに既読にならない。紗枝のことなど、微塵も考えたく無いということなのだろうか。

その事実は紗枝を打ちのめし、死んでしまいたいほどの悲しみの淵に沈める。

だが、喜多川が買ってくれた絢爛豪華な浪費の結晶の数々に触れていると…眩い高揚感のもとで苦しみも悲しみも霧散して行き、紗枝はどうにか呼吸を続けられるのだった。



それにしても、喜多川はなぜこんなにも肩入れしてくれるのだろう。鏡越しに見せたあの悲しげな表情や、仕事部屋への入室を拒む厳しい態度には、一体どんな理由があるのだろう。

自分を認めてくれる喜多川の存在は嬉しい。だが、紗枝にはどうしても喜多川の本当の気持ちが理解できずにいた。

紗枝はアプリをLINEからブラウザに切り替えると、数日前から開いたままにしてあったタブを選択する。「個人投資家・ボアとは?」というタイトルのウェブページが、薄暗い部屋の中で紗枝の顔を明るく照らした。

本名非公開の個人投資家・ボア。大学在学中に180万円を元手に株トレードを始め、たった10年で100億に資産を増やした凄腕投資家。計算すると、現在の年齢は40台前半になるようだ。

「個人投資家 喜多川」と調べたものの目立った情報は見つけられず、代わりに見つけたこのページ。

年齢が喜多川と合致するため気になっていたが、ページに記載してある「稼いだお金を使うことには全く興味がなく、築30年のアパートに住み、車も持たず、質素な生活を好む」というライフスタイルは、全く喜多川とイメージが合わない。

もし、ボアが喜多川だとすれば、一体彼にどんな価値観の変化が起きたのだろう…?

しばらく思案を巡らせたが、考えることに飽きた紗枝はスマホを傍に放り出した。

―どう考えても、喜多川さんのわけ、ないよね。

紗枝は体を起こすと、今日買ったマノロブラニクのヒールに素足を通す。ゆるやかな恍惚の中で、喜多川のことも、慎吾のことも、まるで人ごとのように遠くなる。

この2週間抑圧されつづけていた紗枝の欲望に、並外れて強力な買い物の魔法はよく効いた。久しぶりに感じる、まるで女王になったかのような万能感。素敵な品物。素敵な自分。

―これが私の望んでいた生活なんだ。これが、なりたかった私なんだ…。

放り投げたスマホがスリープになり、「ボア」のページがふっと消える。

喜多川の秘める闇がそこに隠されていたことに、紗枝はまだ気づいていなかった。


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喜多川の心の闇が、その片鱗を見せる。紗枝に浪費をけしかける理由とは