結婚と同時に女に待ち受けるのは、“義実家”という呪縛。

奇妙な風習、監視の目、しきたり、そして義家族たちの薄笑い…。

夜な夜な響くその声は、幸せでいっぱいだったはずの新妻の心を蝕んでゆく。

◆これまでのあらすじ

看護師の岡林沙織(26)は、恋人の清川宗次郎(28)からプロポーズを受ける。

だが清川家のしきたりと、義姉の朝美による嫌がらせは沙織の心を追い詰めていく。婚約者の宗次郎は理解を示すものの、多忙のあまり頼ることはできず…。

そんなある日、夜な夜なバレエを踊る義母の千鶴子の正体を知る。結婚前、有名なバレリーナだったと聞き…



宗次郎は、沙織がはじめて心の底から愛した男性だ。

仲の良い姉妹で育ち、中学高校六年間を女子校。そして大学の看護科に進学し、看護師という女社会。男性との関わりは同年代より少なかったと思う。

何度か男性と付き合った経験はあるが、本気の恋というのはいまいちピンと来ていなかった。

だからこそ宗次郎への思いは、特別だった。

―私には、この人しかいない。

その宗次郎に対する気持ちは出会ったころから今になっても変わらない。離れたくない。別れるなんて考えたこともない。

ただ、沙織は追い詰められていた。

夜な夜な響くピアノの旋律。トウシューズで踊る、コツコツという物音。暗闇でぼんやりと浮かぶ真っ白な顔。血が滴るような赤い唇。はがれかけた付けまつげ。ドロドロに崩れ落ちたアイライナーが黒い涙のように流れ落ち…。

目を凝らした瞬間、おぞましい顔は急に目の前に現れ…

―逃ゲヨウトシテモ無駄ダ…

「きゃああ!!」

「お姉ちゃん!お姉ちゃん!大丈夫?!」


うなされて飛び起きた沙織は妹に泣きつく。しかし、そこには目を疑うような光景が…

汗だくで飛び起きると、目の前で妹の春奈が心配そうに沙織の顔を覗き込んでいた。

安心した沙織は、思わず春奈に抱きついて胸に顔を埋める。

―そうだ。私、春奈の家に泊まってるんだ。よかった…。ここは安心だから。

沙織はルームシェアしていた部屋の引っ越しの手伝いで泊まり込む必要があるのと、三交代のシフトの都合で病院の仮眠室を利用しているという言い分で、清川家にはしばらく戻らずに過ごしていたのだ。

結婚後は実家と縁を切れ、門限は22時だなどと無茶なしきたりを押し付けられそうになっていたが、まだ入籍前だ。沙織は自分の意志で動き、それを黙認されていた。でも、ほぼ軟禁のような状態で拘束されるのも、時間の問題だろう。

沙織は、春奈にしがみ付いてこう訴えた。

「春奈、私、もう限界…。あの家、おかしいの」

「お姉ちゃん…」

春奈がたしなめるようにそっと背中を撫でる。だが次の瞬間、春奈がすぐに腕を離し、沙織は顔を上げた。



「迎えに来たよ、沙織」
「沙織お姉さん、大丈夫?」

そこにいるはずのない二人が、春奈の横に並んでいるのだ。

「宗次郎…。瑠璃ちゃん…どうしてここにいるの?」

宗次郎も瑠璃も、心配そうな顔で沙織のことを見つめている。一生懸命記憶をたどり、周りを見渡す。ここは間違いなく、春奈の部屋だ。

「ちょっと待って。どうして二人がここにいるの?だいたい今何時なの?」

冷静になろうと沙織は春奈に問いかけるが、激しい頭痛で、思考がストップする。体も重く、立ち上がることもできない。

「お姉ちゃん、高熱を出して寝込んでいたのよ」

「え?高熱?私が…?」

「そう。昨日夜勤明けに戻って来たときにはもう40度近い熱があったの。そのまま丸一日寝込んでいたの、全然記憶にない?」

そういえば…と、少しずつ記憶が蘇ってくる。ほとんど眠れぬ日々を清川家で過ごし、逃げるように春奈の元にやってきた。気を紛らわせるために仕事に没頭し、その結果体調を崩したのだ。

「なんとなく、思い出したけど…」

「私、心配して宗次郎さんに連絡したの。それで急遽来てくれることになったのよ」

春奈はそう言って宗次郎の顔を見た。沙織の熱はもう下がったようだが、まだぐったりと体が重い。この状況を受け入れるのにはまだ時間がかかりそうだった。

「そうだったのね…。ありがとう春奈。宗次郎も…。瑠璃ちゃんもきてくれたんだ…」

宗次郎は心配そうに沙織の顔を覗き込み、熱を確かめるように頰に触れる。

「沙織が寝込んでいるとはいえ、春奈ちゃんが一人暮らししている家に俺一人で来るのが気が引けたんだ」

「気を使わなくていいって言ったんだけど」

春奈はそう言うが、宗次郎は毅然とした口調で言った。

「春奈ちゃん、いくらどういう関係の相手でも、自分の家族以外の男性を家にあげてはいけないよ。危ない目にあうかもしれないし、誤解を招くこともあるだろう?」

「誰も宗次郎さんのことそんな風な目で見てないよ。でも、警戒するに越したことはないし、宗次郎さんの対応は誠実だと思うけど…」

瑠璃は戸惑う春奈に向かってこう言った。

「うちでは、婚前に男性と親しくすることは許されないんです。家にあげるなんて…」


しきたり其の八“結婚前に異性と親密になってはいけない”


「それでしかたなく、瑠璃ちゃんをつれてきたっていうわけね」

なんとなくこの家の仕組みがわかって来た沙織は、ため息をつきながらそう言った。

「そうなの。でも私も沙織お姉さんのことが心配だったから、一緒に来れてよかった」

たしかに宗次郎のいうことは一理あるし、その誠実さは彼らしい。ただ、沙織にとってみれば瑠璃は気を使う義家族だし、春奈にも紹介する前だ。

そもそもあの館で育ったお嬢様を、姉妹がルームシェアしていた狭い2LDKに招くのは気が引けた。引っ越し前で散らかっていることもあり、「恥ずかしい」という気持ちが先行してしまう。

この場の風景にまったく似つかわしくない瑠璃が、沙織を心配そうに見つめた。


沙織は家に連れ戻されてしまうのか。宗次郎と二人の時間を過ごそうとするも、また予想外の展開が…

「沙織お姉さん、やっぱり働きすぎよ。退職前で引き継ぎとか色々忙しいのかもしれないけど、体を大切にしなきゃ」

「…退職?」

また沙織が仕事を辞める前提で話が進んでいて戸惑うが、この家族はいつもその調子だし、反論するほど頭も働かない。

「これからしばらくいつもお世話になってる家政婦さんに来てもらうから、沙織さんの看病もできるわ」

「看病って…私は大丈夫よ」

頭が呆然とするが、春奈も「私も仕事忙しいから宗次郎さんのおうちに戻った方が良いよ」と、もっともらしいことを言っている。たしかに、春奈がそう思うのは当然だが、問題はそこではないのだ。

「沙織帰ろう」

宗次郎の言葉を聞いても沙織が押し黙っていると、瑠璃がこう続けた。

「捜索願を出されるわ。私のときも、朝美さんのときもそうだったから…」

「捜索願?瑠璃ちゃんのときって?朝美さんもなの?」

瑠璃は、こぼれそうなほど大きな瞳を潤ませながら口を一文字に結ぶ。そしてぎょっとするほど強い力で、沙織の手を握った。

「一緒に帰りましょう。沙織お姉さん」

瑠璃は何か訴えようとしているのだろうか。まるでフランス人形のように美しい瑠璃の顔が少し歪んだように見えた。

「わかったわ」

沙織は思わずそう答えると、吸い込まれそうなほど神秘的に輝く瑠璃の瞳を見つめ、小さくうなずいた。



久しぶりに、宗次郎と二人きりで過ごす夜。

寝室に入っても一体何を話せば良いのかわからず、二人は黙ったままだった。

ただ、不安が大きくなればなるほど、宗次郎への思いが強くなるのもたしかだ。何もかも忘れて、宗次郎の体に身を委ねたい。愛を確かめ合って、心も体も満たされたい。

その思いを感じたのか、宗次郎は沙織の手を取り、体を引き寄せるとゆっくりと抱きしめる。

二人は何も言わず、そのままベッドに倒れこんだ。

そのときだった。

唐突に寝室の扉が開く。

「…!!」

驚いた二人は、弾かれたように体を離す。

視線の先にいたのは、宗次郎の四歳の甥、京一郎だった。

もう深夜0時近い時間に、ぼんやりと幼児が扉の前に立っている。

「京一郎くん、どうしたの?」

沙織は、恐る恐る声をかける。宗次郎も慌ててガウンを直すと、京一郎に優しい口調で言った。

「まだ夜中だよ。お父さんとお母さんのところに戻ろう。一緒に行こう」

きっと、寝ぼけているのだろう。宗次郎は沙織に目配せすると、京一郎の元に向かおうと立ち上がった。

すると京一郎は急に無邪気な顔をして笑うと、二人のベッドへ駆け寄って来る。沙織には普段見せることのない子供らしい笑顔だ。

京一郎はベッドによじ登るとゴロンと転がってこう言った。

「今日は、僕ここで寝る」

「え?でもお父さんとお母さんが心配するよ」

「お父さんとお母さんが、ここで寝かせてもらいなさいって」

京一郎はそう言いながら布団に潜り込んだ。

「え…ちょっと、京一郎くん?」

「一緒に寝よう。宗次郎お兄ちゃん、沙織お姉ちゃん」

京一郎は沙織の手を掴み、無邪気な微笑みを浮かべている。

沙織と宗次郎はこの状況に困惑し、視線を交わし合うことしかできなかった。


▶NEXT:10月18日 金曜更新予定
あらたに現れた家政婦が握る秘密とは。少しずつ謎が明らかになる。


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呪われた家・清川家の家系図












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