◆裁判所前


人は、真逆のものを好む。

心を裁く場所である裁判所の姿は、決して心を感じさせないように出来ているものだ。

直線に、心は宿らない。





入り口からスーツ姿の男たちが現れ、人だかりが一斉に動く。




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「井口さん!ちょっといいですか?井口さん!」

無数のマイクが向けられる。

「橋上の精神鑑定結果は?もう意識は回復したんでしょ?」
「井口先生!」
「警察は何やってんですか!刑務所内での殺人も起こってるんですよ!」

護衛の警官が、カメラを掻き分ける。

「国民が求めてます!」


…人は、真逆のものを好む。
自分がまともであることの確認に最適なその事件は、自信を失ったこの国の人々に恰好の餌食となった。



一緒に車に乗った警官が、芝居を続けるマスコミ連中を見ながら言う。

「災難だなぁ、先生」

井口が額から流れる汗をぬぐう。

「研究室まで送りますよ」



◆警視庁刑事部



焦燥した精神鑑定医が映されたニュース番組を黒岩が消す。


「…橋上の意識が戻った。もう待てん。誰でいく?」

「わかりかねます、警視」


古びた壁時計の針の音が響き渡る。


「…鑑定は?」

「本人にはまだ。ただ…シロだろうと」


黒岩が椅子を蹴り上げる。


ーあと半年。

親の退任前に、未解決事件を残すわけにはいかない。
いや、この場合犯人は捕まっているので、解決というのとも違う。

ー納得だ。

大衆の納得する解は一つ、『死』だ。『死』が欲しい。



…しかしこの注目だ。火に油を注ぐやつでは困る。



ー”アレ”でいくしかないか。


黒岩がゆっくりと受話器をとる。


「橋上の件だ。”ウバセン”を呼べ」




◆研究室

根本的な問題に悩むには、自分と、そして人々は歳をとりすぎた。


刑法凡例各論の書を読みながら、井口は思う。
ーこれは、”含み”ではない。”雑”なのだ。


『刑法39条1項
 「心神喪失者の行為は、罰しない」

 刑法39条2項
 「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」』


ー昨日警視庁から連絡がきた、担当配属の件。

「色々教えてやって欲しい」と。

…ならば教えるべきか。

国家公務員にとって、真に無意味なものは、”法との闘い”であると。





.


ーバタンッ

ドアのノックとほぼ同時に扉が開き、痩身の男が研究室に入ってくる。


人は、相手の顔を見て1秒で人物を判断しているというが、顔を見る前から、その男の品性を井口は判断できた。



少し酒に焼けたような声を男が絞り出す。

「すいませんね、井口先生。うちのもんが何度も何度も」

井口は、備え付けの小さな冷蔵庫から季節外れの麦茶を取り出す。

「…どうぞ」

男は、その声とほぼ同時に、麦茶を口にする。


井口が、目の前に座った男をゆっくりと見る。

年齢は50歳を少し超えたくらいであろうか。
彫刻のような顔に深く刻まれた皺とはあまりにも不似合な、子供のように輝く大きな瞳に、違和感を覚える。


「工藤って言います。暫く私でいくってなったんで、色々お世話んなります」

瞳のままの幼稚な口調で、工藤が挨拶をする。


井口が静かに口を開く。

「…大変な案件を」


静かな研究室に不釣り合いな大声が鳴り響く。


「ま、はっきり言って誰もやりたがらないんですよ!なんたってこれだけ死んでりゃ、閉じるまで長いですからね。世間に注目されてると、失敗したら埴輪になるし、解決したって誰か救われるわけでもないし。

でね、先生、知ってます?ここだけの話、こういうの、典型的な”姥捨て案件”って言うんですよ。笑っちゃうでしょ?もう先が無いのがあてがわれるんですよ!世間の人気と、警察内部の人気ってのは違うから、ハハハ」

初対面の関係者に、思慮を欠く言葉を吐き続ける工藤に、この事件が”姥捨て”であることは本当なのだろう、と井口は思う。


「でもねぇ、どんな仕事でも、隙間産業ってやつですよ。刑事だって出世案件なんか乗り出すと、まあ競争激しいですから。
こっちはね、毎月銀行口座にお金がボンってね、食ってけりゃいいんですから。あと10年、穏やかにお給料頂戴するにはどうしたらいいかって知恵を絞った結果、”姥捨て専門家”ってやつになったんですよ」

「…工藤さん。過ぎませんか?ご遺族だっているんですよ」

「遺族ったって、殺られたの全員ロクでもない連中でしょ?案外喜んでたりしてね」



・・・一瞬。工藤の目から輝きが失せる。

「それで、井口先生。もう1回、橋上恵一の半生ってやつをわかりやすく、ご高説いただけますか?」


ロクでもない連中…


殺人を犯した人間の背景を、”わかりやすく”説明しろと迫るこの刑事に、井口は事件を頭に思い浮かべた後、不謹慎だと思いつつ、あることを想う。

ー類は友を呼ぶ

と。






「すんませんが、もう1回テープとらせてもらいますよ?」

工藤が、いまどき見たこともない、銀色の大きなレコーダーを机の上に置く。

「橋上恵一の精神鑑定で言った以上のことはお話できませんが」

「書類だとね、頭に入らんのですよ」

井口が、一度ドアに目をやり、話し始める。


「…生後より、実母である橋上君江から凄惨な虐待を受けていた恵一は、10歳を迎える前に、解離性同一性障害を発症しています。いわゆる、多重人格です。
君江からの虐待に精神的に耐えるために、攻撃的な”大輔”という人格を作り出し、彼を矢面に立たせることで、なんとか幼少期を生き延びました」

「小さい頃から大変だ」

井口が続ける。

「君江も、大輔人格の時は反抗が面倒なので虐待を控えていたようです。しかしやがて、恵一にとって不幸が起きてしまう。

実父である根本和夫の精神疾患が進み、唯一の理解者であった彼との同居が困難になったんです」

「なんで親父さんも具合悪くなっちゃったんです?やっぱりあれ?親子で遺伝?」


「…和夫も君江から強烈な虐待を受けていたからです」

「でも親父いなくなったってその大輔クンがいりゃ、いいんじゃないですか」


「そうもいきませんでした。和夫が家を出ていく際、君江はあることを思いつき、恵一に迫ります。それは、
『和夫とともに大輔が家を出ていかなければ、和夫をやがて自分が殺す』というものです。
父親を愛していた恵一は、その暗示を受け入れ、父親とともに一度大輔を自分の人格から失うことになります」

「兄弟生き別れってやつだ。泣けるなぁ」


「その後、大輔人格を失った恵一に対する虐待は過激化の一途を辿りますが、恵一が12歳のとき、ナイフを持った君江と揉み合いになり、恵一は君江を殺害してしまいます。これは正当防衛扱いとなり、かつ未成年の事件ということで、恵一は保護施設に送られます」


「一件落着だ」

「いいえ。恵一は、君江を殺した時から、今度は”殺害した相手の人格を自らに取り込んで生存させる“という、人格の分裂を繰り返し始めます」

「なら、大暴れするの?」

「いいえ。君江殺害の後、恵一はしばらく父親の弟である、根本和明に引き取られ、穏やかな思春期を過ごすので、君江人格が外にでることはありませんでした。そして月日は流れ、その後、恵一は社会に出て成功をおさめます。
この頃が、恵一にとって唯一”まとも”な時間と言えるでしょう。
ところが、逆に蓄財したことで大きな目標を失い、再び精神に異常をきたし、自殺未遂を繰り返しはじめます」

「…ふーん」


「恵一は、自殺を止めるために、教育心理学者であり、事業のパートナーであった飯島に、精神分析を依頼しますが、飯島はそれを断ります。
心神耗弱となった恵一は、そこで”殺した相手を別人格として取り込める“自分の特性を使いだすのです。

彼は飯島を殺害し、自分の中に取り込んだ飯島の人格を使って、自らの分析を進めていきます」

「それが、あの刑務所での大量の手記ね」


「飯島人格により、彼は、しばらく記憶から封印されていた、”大輔”人格こそが、窮地に陥った自分を救える存在であることを思い出します。
そして、その大輔は、幼きころに父親である根本和夫とともに離れていることも。
・・・保護者である、大輔を戻さなくてはいけない。

しかし、一つ問題がありました。
恵一は、離別の際に、君江より”和夫が死んだら”大輔と再会できるという呪縛をかけられていました」

「なので、大輔人格に会うために、和夫を殺した?」


「恵一は、和夫を確実に殺害するため、和夫殺害に最も適した人格である、彼に激しく憎悪をもつ”君江”を呼び起こし、和夫を殺害します。
これにより、和夫の人格を自分の中に取り込んだ後、大輔を連れてこさせ、自分に返還させたのです」

「戻してどうしたんです?」


「大輔に、精神を病み、他の収監者からのプレッシャーも受けていた自分の保護を依頼しようとしましたが、ここで大輔人格が暴走します。
大輔は、恵一が病んだ根本原因は、消えない君江の存在にあると考え、君江殺害を計画したのです。

…そして、君江と大輔が対峙し、大輔は君江の喉にスプーンの柄を突き刺して殺害した」


「でもさ、先生。恵一も、君江も、大輔ってのも、結局一人の人間でしょ?」

「ええ。だから、周りから見れば、単に自分の喉に自分でスプーンを突き刺したんですよ」






「ま、わかったようなわからないような」

「橋上も大きな後遺症はなく意識が回復したと聞いていますから、今後、この推論を実証していくことになります。

ただ、君江人格という恵一を狂わせた元凶が殺され、実行犯ともいうべき大輔人格も、本来君江から恵一を守るための存在ですから、君江殺害とともに消えている。いわば、素の橋上恵一が残された状態で、どこまで真実を引き出せるか。

恵一としては、自分の意識に無いところで、色々事件が起こったわけですから」



「‥そういうもんなんですかねぇ」

工藤の声が小さく響く。

「先生、どうもね、私はなんかスッとしないんですよ」


「…例えばどこが?」

「例えばっていうんじゃないですが、なんとなくほら、よく言うでしょ、刑事の勘とかって」



「私はね、頭の出来がイマイチなもんで、見えるものしか理解できないんですよ、やったのは彼の中の別の人間だとか、そういうのがどうもね。
もう、”人殺しは、許さん”ってのじゃダメなんですかね」


「・・・精神鑑定医の見解としては、恵一はすべて精神疾患の中で犯罪を犯しています。
過去の判例でも、精神疾患状態における重犯罪には、情状酌量の判決が出ているのが実態です」

工藤が、驚く素振りをみせながら言う。

「参ったな先生、これから何年も駆けずり回る男に、お先真っ暗なこと言わんでくださいよ」

井口が問いかける。

「・・・本当に駆けずり回るんですか?」


工藤が立ち上がる。

「そりゃ先生。お給料いただけるくらいには、ね」




「じゃ、先生、また来ます」

この季節にはまだ早いオーバーコートを工藤が手に取る。


「工藤さん。この後、どうされるんです?」

「橋上って、意識、戻ったんですよね?」

「ええ。ただ、まだ面会はこちらが話をするだけしか許可が下りていないと聞いています」

グラスに僅かに残った麦茶を工藤が飲み干す。


「ま、一回会っとくかな」

「会ってどうされます?」


「…まだ寝たきり?」

「ええ」


工藤が子供のような笑顔を見せる。

「じゃ、ちょうどいいや。先生、知ってます?私らが新人の時に教わる捜査の鉄則。”寝た子を起こせ”って言ってね、ハハハ」

「…」

「先生真面目だなぁ。ま、とりあえず顔を拝ませていただきますよ。大量殺人犯の顔なんてね、私ら刑事でも滅多にお目にかかれるもんでもないから」

「ご協力できることがあれば」


「あ、そしたら先生、祈っててくださいよ」

「何をです?」


「無事に姥捨て山から下山できますように、って。アハハ」



ーバタンッ

工藤が帰った後の静まり返った部屋で、
井口は自分の唇が渇ききっていることに気づき、麦茶にようやく口をつけ、思う。


ーさっきから感じている、この違和感は一体なんなのかと。




◆病室










刑務官の声が部屋に響く。

「橋上。面会だ」




五点拘束をされた橋上の目が、まっすぐに天井を見上げている。

「おい、橋上。聞いてるか?面会だ」

目は、動かない。


「申し訳ございません。ずっとこのような状態が続いておりまして」

痩身で子供のような瞳をした男が、刑務官の肩を「いいよ」と言わんばかりに、ポンッと叩く。


…コツ、コツ


男が、ゆっくりと、しかし真っすぐに橋上に近づく。

直線に、心は宿らない。


足音が、医療機器で彩られた無機質な白い部屋に響き渡る。


…コツ、コツ、コツ、コツ


ー顔を見る前から、人は人を判断できる。









これまで動かなかった橋上の目が、ゆっくりと…限りなくゆっくりと、地平へと向けられていく。




歩く速さを変えずに、工藤が近づく。



橋上の目が工藤を捕らえ、やがて、口元が笑う。



工藤が止まる。


「橋上……歓迎してくれるのか?」


一瞬。工藤の瞳から輝きが消える。



「わかってる。聞くだけでいい。ただし、俺を見続けろ」


橋上の目の奥に、黒い色が拡がる。







「・・・お前、根本和明をどうした」


…ジジッ ジジジジジジッ ジジジッ

頭の中で、音が鳴り響く。




「お前が最近殺した連中。精神疾患だと減刑されるんだそうだがな」

橋上が工藤の目を見据える。



「…知ってるか?」






「最高刑が死刑となる罪の時効制度ってのは、もう撤廃されてるんだ。分かりづらかったなら言い直してやる。
…殺人犯ってのは、生きてる限り死刑にできるんだ」

橋上の口元の笑いが、かすかに消える。



「偉い先生が言ってたぞ。恵一君は、12歳でお母さんを殺してから、しばらくは穏やかな日々を過ごしましたって」


橋上の目に、黒が満ちていく。


「その時は人格崩壊してないんだろ?恵一君そのものなんだろ?だったらなんで、その時お前を世話してた、父親の根本和夫の弟、根本和明ってのが…」


工藤の顔が、橋上に重なるように素早く近づき、耳元でささやく。



「消えていなくなっちゃってるんだよ」


橋上の真っ黒な目が工藤を見据える。

「・・・お前、やっただろ?お前が今、イカれてても関係ないぞ」



「まともだった頃のお前の罪で、必ず死刑にしてやる」


医療機器の電子音が鈍い音を立てる。


ージジ…ジジジジッ ジジジッ



その時、工藤に強烈な勘が走る。
いや、勘というものが”経験”からくるものなのであれば、この勘を持つ人間など、いるはずがない。




ー自分は、おそらくこの事件で死ぬ。

これは勘ではない。予知だ。


工藤が、自分の足元のボロボロの革靴に目をやる。


ーこの山から、下山はできない。


工藤の口角がわずかに上がり、静かな医務室に不釣り合いな大声で言う。

「橋上、言い遅れた。警視庁の工藤だ」




◆研究室

暖房を入れ始めた研究室の室温計が、23℃を示す。


工藤と会ってから、常に消えない違和感。

彼との会話を、井口は頭の中で反芻した。

(−私はね、頭の出来がイマイチなもんで、見えるものしか理解できないんですよ…)


…何かがひっかかる。


井口は窓の外を見る。



剥き出しの街路樹。厚手のコートを羽織る学生。夏よりも低く澄んだ空。

外はすっかり冬景色だ。


ー冬。



十分な暖かさの部屋で、井口が僅かな悪寒を感じる。



ー・・・冬?




ーなんで、私は「冬」になったことを理解できた?


井口が室温計を見る。

ー感じたんじゃない。



(ー剥き出しの街路樹。厚手のコートを羽織る学生‥‥)


ー「見た」んだ。冬の景色を。目で。




井口が、芋虫のように本が陳列された本棚に駆け寄る。




古びた法医学概論を棚から取り出す。

ページをめくる。


ーあった。


『【三徴候説】さんちょうこうせつ ▼

「死」についての明確な定義は、日本の法律には存在していない。法医学の学説として、以下3つの徴候をもって死を認識するという見解である。

「瞳孔拡散(対光反射の消失)」

「呼吸の不可逆的停止」

「心臓の不可逆的停止」

以上をもって、死亡したものとする考えである』


ー死は、目に見える。



井口は、自分が工藤に言った言葉を思い出す。

(−大輔は君江の喉にスプーンの柄を突き刺して殺害した…)

(−実行犯ともいうべき大輔人格も、君江人格の殺害とともに消えている…)


見解が過ぎる。


彼らの瞳孔は?心臓は?呼吸は?

…何も見ていない。いや、見えない。


そもそも彼らは、”死にようがない”のだ。



ー消えただけだ。死んでいない。恵一が生きている限り、死ねない。


工藤。あの男。

(ー”寝た子を起こせ”って言ってね…)

疑っていたのだ。恵一が取り込んだ人格たちが死んだことを。
いや、正確には、理解しようとしなかった。


ー類は友を呼ぶ
工藤を、”表の顔”で判断してはいけない。


そして、工藤は。



起こしに行ったのだ。
恵一の中の人格は、かならず恵一に危険が迫ると現れる。




では、工藤に起こされたのは、





…いったい誰だ?




煮沸第二章 第一話