ひとり旅をするとき、こんな妄想をしたことはないだろうか。

―列車で、飛行機で、もし隣の席にイケメンor美女が座ったら…?

そして、妄想は稀に現実になる。

いくつになっても忘れないでほしい。運命の相手とは、思わぬところで出会ってしまうものなのだと。

傷心旅行に発った及川静香は、素性の知らない男と恋に落ちるが…。出会いから、別れまで、たった14日間の恋の物語。

◆これまでのあらすじ

静香は元カレに別れを告げられ、二人で行く予定だったハワイへひとり旅に出た。

行きの機内で知り合った男に惹かれ、名前も職業も知らないまま、2日目の夜には男女の仲となってしまうが…。



Day3


7時30分、『ザ・リッツ・カールトン ワイキキビーチ』、その一室。

静香は、淹れたばかりのコーヒーを手に、ほとんど身に何もつけていない状態でベッドに腰かけ、ワイキキの朝陽を眺めていた。

初日の夜と違い、2日目の夜は酔わなかった。だから、名前も知らない彼との甘い一夜を鮮明に覚えている。

だが今、この部屋に彼はいない。

30分ほど前に目覚めたとき、すでにベッドの隣から彼は消えていた。何も言わずに帰ったのだ。

虚しさが込みあげてくる。少しばかり“運命”を感じていた自分が恥ずかしかった。

―私、何やってんだろう…。

もしこれが東京での出来事なら、日常に戻ればいいだけのこと。何事もなかったように仕事に臨めばいい。

でもここはハワイだ。非日常は、続く。

静香は立ち上がり、ソファで脱いだリゾートワンピを丁寧にしまった後、玄関脇に放置してあったクラッチバッグを拾い上げた。

内ポケットには小さくたたんだメモが入っている。静香の名前とケータイ番号を記したものだ。

―結局、渡せなかった。…でも、これでいい。だってこれが旅の醍醐味でしょ。それに私はフリーだし、これでいいのよ…。

何度も自分に言い聞かせるが、言い聞かせるたび虚しさは増していく。

もう一度、寝てしまおうか。朝陽の中で二度寝も悪くない、などと考えていると、部屋のドアがチャイムも鳴らずに突然開いた。

「きゃっ」

思わず静香は小さな悲鳴をあげる。

「あー、ごめんごめん。起きてたか」

名前も知らない、あの男がひょっこり帰ってきた。ウェーブのかかった艶やかな黒髪が濡れている。

「お腹、減ってない?」

男は、左手にアサイーボウル、右手にもアサイーボールとこの部屋のカードキーを器用に持っていた。

「朝ごはん、買ってきた」


自由すぎる男に、振り回されっぱなしの静香。しかし、決意の一言をついに口にする。

朝イチで目覚めた男はサーフィンをするため、寝ている静香を起こさないように慎重に部屋を出て、海へ向かっていたらしい。

「サーフィンが趣味なの?」

「ぜんぜん趣味じゃない。ハワイに住んでいたときだけ、やってた。日本にいるときは、まったくやらないかな。だから、なかなか勘が戻らなくてさ」

静香の質問に、男は丁寧に答えてくれた。初日も2日目もずっとそうだったが、学校の先生のようにワイキキをガイドし、聞いてもないことまで教えてくれる。

でも名前と職業だけは、教えてくれない。

「私たち、昨日が最後の夜だって言ったよね?」

「うん、言った」

静香は明日からもリッツカールトンに宿泊だが、男は今日チェックアウトしなければならない。昨日は最後の夜だからこそ、二人はディナーへ行くことになったのだ。

そして、男女の仲となった。互いの名前も知らないままに。

「このあと、自分の部屋に帰って支度して、チェックアウトしないと」

「そしたら、私たちはもうお別れなの?」

「まあ、そうなるよね」

静香の問いに、男は平然と答える。

「アサイーボウル食べ終わって、あなたが部屋を出てったら、バイバイってこと?」

「もしかして、別れを惜しんでる?」

今度は彼は、いたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。

「せめて、名前が知りたいの」

静香が真剣に尋ねると、男の顔から笑みが消えた。



「正直に言うわ。私は、あなたに“運命”を感じてるの」

静香としては、出会ったばかりの男と“そういうこと”になるなんて、運命以外には理由付けができない。それだけ真面目に生きてきたのだ。

すると男は、そんな静香の心を読んだかのように返事をした。

「真面目だなあ」

出会ったときから彼はずっとそうだ。いつもこちらの心を見透かしているかのように言葉を連ねてくる。

「名前も知らない人と、そういう関係になるのが、旅の醍醐味だっていうの?」

静香は少し語気を強めたが、それでも男は、何でもないことのように頷いた。

「おっしゃるとおり。だって、もし君が俺の“運命”の相手だって言うなら、このまま名前を知らないでバイバイしても、またどこかで会えるはずだよね?」

返す言葉もなく呆然とする静香を置いて、男はアサイーボウルを平らげると同時に、部屋から風のように去っていった。

笑いながら、「じゃ、運命ならまたどこかで」と言い残して。

追いかけたり、チェックアウト時にロビーで待ち伏せしたりして、男ともう一度話すことはできたかもしれない。

だが静香は、しなかった。正確に言えば、できなかった。

恥じらいがあったのか、勇気が出なかったのか、フラれた気分になって悲しくなったのか。その理由は自分でもわからなかった。


サヨナラしたはずなのに…。静香を待ち受ける、想定外の出来事とは?

―ひとまず何も考えたくない。

静香はその一心で、ハワイ3日目は体を動かすことに決めた。

―ダイヤモンドヘッドを登ろう。

日焼け止めクリームを丁寧に全身に塗り、ペットボトルの水も用意し、リッツカールトンからウーバーで、トレッキングコースの入口へ行く。

1ドル紙幣で入場料を払ったとき、こっちに来てから初めて現金を使ったことに気が付いた。ハワイでは、クレジットカード1枚あればほとんどの支払いができるからだ。

財布に紙幣を数枚ほど入れておいて良かった。

そしてトレイルのスタート地点へ立ち、視線の先にある山頂を見上げ、いざ一歩を踏み出そうとした、その時だった。

「おい、ウソだろ」

聞き覚えのある声が背後からして、静香は振り返る。

そこには、名前も知らないあの男がいた。

「あっさり再会しちゃったじゃん」

静香はあまりに驚いて、声が出せなかった。

「俺たち、本当に“運命”なのかな」

男はそう言うと、またいたずらっぽい笑みを浮かべる。結局、静香と男は一緒に山頂を目指すことになった。

「ダイヤモンドヘッドは初めて?」

「大学の卒業旅行でハワイに来たときは、友達が誰も行きたいって言わなくて、私も興味が沸かなくて」

「もったいないなあ。最高なのに」

一生もう会わない可能性もあったというのに、男は屈託なく静香に話しかけてくる。

「学生のころは興味が沸かなかったのに、今になって登ることにしたのは、どうして?」

あなたのことを忘れたくて思い立ったの、とはまさか言えず、静香は適当に受け流した。

舗装された歩きやすい道が終わり、未舗装のクネクネと曲がった狭い岩場の上り坂に入っていく。

前後からは、老若男女、様々な人種・国籍の人々の、荒くて、それでいて楽し気な息遣いが聞こえる。

ポータブルスピーカーで音楽を流してノリノリな一団もいれば、トレイルランニングしている猛者もいた。YouTubeを撮影している者もいる。

「みんな、自由だなぁ」

ぽつりと漏らした静香の言葉に、男はすかさず食いついた。

「自由って、何を指した自由?」

「…周りの迷惑とか、気にしないのかなって」

「え、迷惑なの?」

確かに、よく考えれば誰の迷惑でもない。静香はそのことに気づいてハッとする。

「あれは、自由じゃなくて普通。彼らは普通に過ごしてる」

「そっか…」

「かといって君が普通じゃないとは言わない。君も普通。俺だって普通。みんなが、好きに自由に生きていい。ここではそれが普通だし、世界中がそうなればいいと俺は思ってる」



長くて急な階段をあがりきり、暗いトンネルを越えて、ふたたび傾斜のきつい階段を登っていくと―。

ついに山頂に到達した。

上空から見下ろすワイキキの海と街並みはやはり美しい。まさに絶景だ。

小さな展望台には人が溢れていて、誰もがこの絶景を写真に収めている。

「写真、撮ろうか?」

男に尋ねられ、静香は「お願いできる?」と言ってスマホを渡し、絶景を背にポーズを取ろうとする。しかし彼は、当然のように自撮りの体勢を取り、ツーショットを収めた。

静香が呆気に取られていると、男はそれに気づいたらしい。

「もしかして、ワンショットで撮ってほしかった?」

「そうだけど…大丈夫」

ツーショットのほうが嬉しい、なんて言えなかった。

「久々に来たなー」

男は柵に肘をついて、空と海を眺めている。静香はその隣に立ち、同じ景色を見た。

「あのさ」

頃合いを見計らって、静香は切り出した。


そして、ついに男の名前を知ることに…。

「入口で偶然再会したときから、ずっと言おうと思ってたんだけど」

トーンの重い静香の言葉に、男は首をかしげた。

「なに?」

「私との関係が、旅先の遊びじゃなくて、真剣に考えてくれるなら連絡が欲しいの」

そう言って、お守りのようにポケットに忍ばせていたメモを出す。

「これが私の名前と、ケータイの番号」

だが、男が口にしたのは、散々言われてきた“あの言葉”だった。

「本当に、真面目な子なんだね」

静香は黙り込んでしまった。男は「でも分かった。大事に貰っておく」とメモを受け取って、その紙にすぐに目を落とす。

「へー、静香さんって言うんだ?」

「あなたの名前は?」

「ユーサク。勇気の『勇』に『作る』で、勇作」

「勇作」

「こっちの人に名前を言うと“You suck?”と言って、笑われるけどね」

「あ〜、“お前、最低”って意味だから?」

「そうそう」

頑として名前を言わなかった勇作が、さらりと名乗ってくれた。偶然の再会を、本当に“運命”だと感じてくれたのかもしれない。静香は嬉しくなった。

だが、その直後だった。



「あっ」

山頂ならではの突風が吹いた。同時に勇作が掴んでいたメモが飛ばされる。まるで紙飛行機のように…。

「静香さんの連絡先が、なくなった」

静香は呆然と、ひらひらと宙を舞っていく紙切れを見つめていた。

「ま、これも“運命”か」

少しの間立ち尽くしていたが、すぐに気を取り直し、新たなメモを用意しようとポケットをまさぐる。しかし適当な紙がない。

―仕方ないわ。

財布から、1ドル紙幣を取り出した。これをメモ代わりにしようと思ったのだ。しかし今度は、ペンがない。

近くに絶景をデッサンしている中年女性がいた。

ーラッキー。これこそ“運命”だわ。

静香は英語で話しかけてペンを借りると、1ドル紙幣に改めて連絡先を書いて、勇作に渡す。

「1ドル札に、ケータイ番号?静香さんって、ただの真面目じゃないね。面白い」

勇作は声をあげて笑った。

「もらってください、私のラブレター」

もはや静香は、やぶれかぶれになっていた。キャラでもないことをやっているのは重々承知だ。

―すべてはハワイのせい。ハワイが私を狂わせるのよ。

「わかった。喜んでもらうよ、静香さんのラブレター」

大いに笑ったあと、勇作は静香の連絡先を受け取り、丁寧に自分のポケットにしまってくれる。それを見て、静香は安堵した。

しかし下山後、勇作は信じられない行動に出る。

トレッキングコースの出入口にある自動販売機で、静香の連絡先が記された1ドル札を使ってしまったのだ。

―私のラブレターが、機械の中に、吸い込まれていく…。

あんぐりと口を開けて固まる静香を見て、勇作はふたたび笑う。

「これが“運命”なら、いつか俺のもとに戻ってくる」

そう言うと、静香を振り返ることもなく、待たせていたウーバーに乗りこんであっという間に行ってしまうのだった。


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そして4日目。静香を振り回す勇作の“意図”が分かり始めて…。