“思い出”はときに、“ガラクタ”に変わる。

ガラクタに満ちた部屋で、足を取られ、何度も何度もつまずいて、サヨナラを決意する。

捨てて、捨てて、まだ捨てて、ようやく手に入る幸せがある。


合言葉は、ひとつだけ。


「それ、あなたの明日に必要ですか?」



徳重雅矢は、お片づけのプロ。カリスマ整理収納アドバイザーだ。

“お片づけコンシェルジュ”を名乗る雅矢は、新人アシスタントの樋口美桜とともに、まるで魔法のように依頼人の部屋を片づけ、過去との決別を促し、新たな未来へ導いていく。

今回の依頼人は…城山友香里(39)。夜逃げを決意した主婦。

弁護士で収入の良い夫から、日々モラハラを受けている友香里は、離婚を決意するが応じてもらうことができず…。

▶前回:「夫の海外赴任中に、寂しすぎて…」豪邸に残された妻が取ってしまった予想外の奇行



「逃げましょう」

雅矢は、きっぱりとそう言い切った。

「守るべきものは、あなた自身です。お手伝いさせてください」

依頼人の友香里は、雅矢のその言葉を皮切りに、ワッと顔を両手で覆い嗚咽した。


―雅矢さんの決断、すごい…。

美桜は、友香里の震える背中を優しくさすりながら、そんなことを考えていた。

雅矢と美桜、二人で飲みに行ったあの夜、切羽詰まった依頼メールが友香里から届いたのだ。

依頼は単刀直入に「夜逃げの準備を手伝ってもらいたい」とだけ記されていた。

引っ越しに伴う片付けの依頼を受けることはあるが、「夜逃げ」という響きはあまりにも物騒だ。

美桜は夜逃げと聞いた瞬間に、どうしても「借金を踏み倒す」「犯罪から逃れる」というイメージが湧いてしまい、危険すぎることを理由にすぐに断ろうと言った。

しかし雅矢はそんな美桜の主張とは反対に、頑なに依頼人と会うと言い切った。

「この方には僕の助けが必要です。…悲痛な心の声が聞こえる気がするんです。僕には、わかります」

そして依頼人に初めて会った今日、友香里のした告白は…。

雅矢の予想通り、あまりに悲痛なものだったのだ。


友香里が受けてきた数々のモラハラ…その実態は

「結婚して10年が経ちますが、これまでずっと弁護士の夫からひどいモラハラを受けてきました」

何かと理由をつけては、友香里は働くことも、遊びに行くこともほとんど許されず、極め付けは子供を望むことさえ許されなかったという。

「そんな…ひどすぎます…」

美桜は、思わずそう呟いていた。友香里は頷くと、意外な言葉を続けた。

「でも、自分がひどい目に遭っているんだとやっと気づいたのは、ここ1〜2年のことです。それまでは“バカな私が悪い”ってずっと思っていました」

「バカって…どういうことですか?」



たまらず美桜が聞き返すと、友香里は悲しそうに少し笑う。

「ずっと、夫からそう言われ続けていました。“お前はバカだ。無能だ。不幸にさせるだけだから子供は作らせないって”…。優秀な弁護士の夫が言うのだから、そうに違いないって」

美桜はショックと怒りで言葉を失う。雅矢は冷静かつ穏やかな口調で、友香里の心に寄り添った。

「法律のプロであるご主人に対して、離婚に向けて真っ向から対峙するのは怖いと思います」

「はい。だからずっと身動きも取れず、がんじがらめで…。裕福な暮らしに甘んじていたこともたしかですし、機嫌が良いときは本当に優しくて、いつも大切にしてくれて…」

「それは、DV加害者の上等手段です。今すぐ離れて下さい」

雅矢はきっぱりとそう言い、友香里は「目を醒ましました」と答えた。

「夜逃げ」とは言え、失踪するわけではない。もう二度と家に戻らずに済むように、荷物を最低限にまとめるのだ。ホテルやウィークリーマンションに一旦避難し、離婚へ向けての準備を進める。

雅矢は、それを即日行うと言うのだ。

「旦那さんのご帰宅時間は?」

「遅いと思います。いつも夜10時は過ぎるので」

「間に合います。必要なものを選び抜き、段ボールにまとめて避難させましょう。即日借りることができそうな貸し倉庫か…」

友香里は意を決したようなまっすぐな眼差しで言った。


友香里はついに決断をする。

「荷物は、実家に送ります。事情はまだ説明していませんが、使っていない離れがあるような田舎の家なので、スペース的には問題ないかと。私が受け取れるように日付指定し、実家の方に身を潜めます」

モラハラ夫が弁護士というのは脅威でもあると同時に、社会的な立場を鑑みて下手なことはできないということも意味していた。下手に隠れて身をひそめるより、実家に帰るということを明らかにし、やりとりは代理人を通して行う方が良いだろう。

ただ、同居したまま話し合っていては埒があかない。何度別居や離婚を持ちかけても、言いくるめられてしまうのだ。

「お前は俺がいないと生きていけない、と10年間言われ続けたんです。そう信じていたし、その通りだったのかもしれません。それが愛だとも思っていました」

急ピッチで荷造りしながら、友香里は語った。自分名義のクレジットカードもキャッシュカードも持つことを許されていなかったが、いざいうときのために独身時代の貯金、500万円を現金で隠し持っていた。財産分与の段階に至るまでに、ひとまずその現金を崩しながら過ごすことになりそうだ。

「まとまった現金があって、本当に良かった」

美桜も胸を撫で下ろした。決して何年も暮らせる金額ではないが、実家に身を寄せている限り、目先の不安は少なくて済むだろう。

今日、友香里が別れを告げたものとは、もう二度と巡り会えない可能性もある。それを分かった上で、友香里の片付けの取捨選択は、潔かった。



「雅矢さんに『必要ですか?』と問われるたびに、『ああ、必要だと思い込んでいただけなんだ』って…実感します。夫との結婚生活と同じですね。裸一貫で再スタートをしたいので、服もバッグも靴も、何もかも手放したいくらい。だって、すべて夫のお金で買ったものですから、もう愛着も感じません」

友香里の住居である北参道の高級低層マンションは、室内は上品なインテリアで彩られている。ウォークインクローゼットにはエルメスやセリーヌなどの高級な服や靴、バッグが並んでいたが、友香里の決心は潔かった。

友香里がダンボールに詰めたのは、独身時代から使っていたものだけ。わずかな荷物を宅配に出し、スーツケースには数日分の着替えを詰めた。

「ずいぶん高価なものばかりですが、もったいないなんて、思いませんか?」

美桜の問いかけに友香里は、ゆっくりと首を横に振り、口を開く。


いざ、家を出るときに友香里がしたこととは?

「いいえ。まったく。ただ、この10年の月日はもったいないですよね。私は何もかも失い、疲れ果てました。もうすぐ40歳を迎えますし、これからはキャリアもない、無職の独身です」

話す内容は悲痛なものだったが、友香里の声の表情からは、不思議な清々しさが感じられる。

「友香里さんは、人生の折り返し地点を、新しい自分で迎えることができるんですよ。足枷になるものも、重りもありません。体一つで、理想の目的地へ向かって走れるなんて、素晴らしいことですよ」

雅矢は心底ホッとしたように言う。

「…雅矢さんの言う通りですね。私も、後先考えず会社を辞めてこの世界に飛び込んじゃいました」

美桜の発言に、雅矢は冗談めかして大げさにため息をついた。

「美桜さんの無鉄砲と一緒にしないでください」

美桜が慌てた様子を見せると、思わず友香里が吹き出して、結局3人で笑った。



雅矢は時計を見ると「急ぎましょう」と言い、最終的な夜逃げの準備はあっという間に終わった。

段ボール箱数個を宅配に出したあとの友香里の荷物は、スーツケースとショルダーバッグだけだ。

「もしかして主人は、私が荷物と一緒にいなくなったことに、気づかないかもしれませんね。リビングもダイニングもそのままなので、荷物が減っているようにはとても見えません。私一人がこの家から消えても、何一つ風景は変わらない。さみしいような清々しいような、不思議な気分です」

そう言いながら友香里は、リビングのローテーブルにそっと手紙を置く。


友香里を見送った二人に芽生えた感情とは?

『実家に帰ります。今後のことは代理人を通して連絡します』とだけ書かれた、短い手紙。

こんな手紙を残すのは、捜索願を出させないためだ。居場所を明かすことにも乗り気ではないが、こうするよりほかない。何より、プライドが高く体裁を気にするタイプの友香里の夫が、実家まで追いかけてくることは考えにくかった。

どこか晴れやかな表情の友香里とともに、雅矢と美桜も家を出る。友香里の代わりにマンションの外までスーツケースを運んだ雅矢は、これから飛行機に飛び乗るという友香里に、「車で送ります」と声をかけた。

「そこまでしてもらえませんよ。それになにより…自分の足で、歩きたいんです」

丁重に遠慮を伝えると、友香里はお礼の言葉とともに深々と頭を下げる。そして、せわしなくも堂々とした足取りで、駅に向かってスーツケースを転がしながら歩いていった。

その後ろ姿を、雅矢と美桜はしばらく見つめ、その場に立ち尽くしていた。

「友香里さん、きっと幸せになれますよね」

美桜は、自分に言い聞かせるようにそう呟く。雅矢も「もちろんです」と言う。根拠はなくてもそう信じてしまえるほど、友香里の去り際は清々しかった。

「私、雅矢さんは、夜逃げなんてダメだって言うと思ってました」

立ち尽くしたまま、美桜が話を振ると、雅矢は小さく頷いた。

「お話しした通りの両親なので、自分はああはなりたくないと子供のころから思っていました。まっすぐに生きようと必死で、バカみたいに生真面目だった僕です。夜逃げなんてめっそうもない。話し合って解決するべきだ!なんて言っていたでしょうね。…今までの僕だったら」

雅矢は美桜の顔を見つめ、少し微笑んだ。



「でも、あのままの僕だったら、この仕事を続けることは難しかったかもしれません。正義を貫くのではなく、心に寄り添う人間になりたい。そう思うようになりました。あなたのおかげですよ」

意外な言葉に、美桜は驚いてあたふたしてしまう。

「え?私ですか?どうしてそんな…」

美桜の驚きふためく様子を見て、雅矢は楽しそうに笑った。

「今まで、仕事終わりに職場の人と飲みに行くとか、まったく考えられないタイプだったんです。全然理解できなくて。でも、美桜さんと食べるご飯は美味しいし、一緒に飲むお酒は楽しいです」

そこまで言うと、雅矢はさらに朗らかな笑顔を見せる。

「今もまた、うっかり食事に誘いそうなので、急いで帰ります。美桜さんの立場になって考えると、連日雇い主に食事に連れていかれるなて、最悪ですもんね」

「え?そんなこと…」

美桜が否定する前に、雅矢は「では」と言って、この場を離れた。

美桜はやり場のない気持ちと胸の高鳴りが抑えきれず、しばらくその場に、ただ立ち尽くしていた。


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