東京の平凡な女は、夢見ている。

誰かが、自分の隠された才能を見抜き、抜擢してくれる。

誰かが、自分の価値に気がついて、贅沢をさせてくれる。

でも考えてみよう。

どうして男は、あえて「彼女」を選んだのだろう?

やがて男の闇に、女の人生はじわじわと侵食されていく。

欲にまみれた男の闇に、ご用心。

◆これまでのあらすじ

罪悪感に苛まれた秋帆は、黒川に退職願を突きつけた。呆然とする黒川は、その後…?

▶前回:「私は、あなたのこと…」サイコパス社長を動揺させた、部下の予想外な言葉



「お世話になりました」

社長室を後にした秋帆は、そのままエントランスに向かった。

一度振り返って、深々と頭を下げる。

退職願も出してきたところだ。デスクも一通り片付けてきた。もうここに来ることはないだろう。

改めてエントランスを眺めると、面接で来たあの日や出社初日が思い出されて、少しだけ胸が苦しくなった。

黒川から離れると決めたものの、今後のことは何も決めていない。不安がないといえば嘘になる。

だが、限界だった。これ以上、罪悪感に苛まれながら仕事を続けることはできなかったのだ。

黒川のところにいきなり乗り込んだのは、自分でも無鉄砲だったと思う。案の定、彼にはこてんぱんにやられた。

それでも、黒川が耳を傾けてくれるのではないか…と、心のどこかで思ってもいた。

― 皆、根は良い人。

そう信じたい気持ちもあったし、最近は色々あったが、黒川に感謝しているのは事実。最後の最後に、自分の思いをすべてぶつけてきたのだ。

「よし」

秋帆は、エントランスから外に一歩踏み出す。夕暮れ時、さわやかな風が吹いていた。

そして、ある場所へと向かった。


一方の黒川。秋帆が出て行った後、深夜まで…?

封印していた過去


「調子に乗りやがって…」

黒川は、秋帆が出て行ったドアを睨みつけながら、その場に立ち尽くした。

不意にフラッシュバックした記憶が、頭から一向に離れない。秋帆なんかに、ペースを乱される自分に苛立ちは募っていくばかりだ。

そんな黒川に、人事部長もどうしたら良いのか分からないのだろう。指示を得ようと、恐る恐る口を開いた。

「あの…。この退職届は、私が預かっておくのでよろしいでしょうか?」

黒川が振り返ると、彼は机の上に置かれた退職届を手にしていた。このまま、この退職届をもって席に戻り、退職手続きを進めるつもりなのだろう。

この場で彼にお願いする方が、業務は円滑に回る。そう頭では分かっているのだが、咄嗟に出たのは反対の言葉だった。

「いや。とりあえず預かっておく。それから…。悪いが、今は一人にさせてくれないか?この後の会議も何もかも、すべてキャンセルしてくれ」

「は、はい…」

一瞬、人事部長は怪訝な顔をしたが、すぐに退職届を机に置き、バタバタと出て行った。



「くそッ!」

黒川は、机に置かれたガムの入ったボトルをドアに向かって投げつけた。

数時間前は、半分以上入っていたガムが今は空っぽ。その場に、カランとボトルが落下する。

怒りを鎮めるように、ずっとガムを噛み続けていた。

ふとスマホを見ると、時刻は深夜2時を過ぎたところ。

オフィスの電気は、自分の部屋も含めて全て消えている。夕方、人事部長が退出してから、ずっと部屋にこもっていた。

「俺は、生き残るために必死だったんだ」

黒川は、暗闇の中で呟いた。

何としてでも成功しなければという気持ちでがむしゃらにやってきた。周囲から何を言われようとも、法律ギリギリであろうとも。

そのおかげで、会社は随分と大きくなったのだ。組織を、そして人間をいかに合理的に動かすかを考えてやってきた。

だから、これまでに積み上げてきたことが無になってしまうことを考えれば、従業員を縛り付けてしまうことの罪悪感など些細なことだった。

そんな苦悩も知らない女が、正論を振りかざしながら退職の意を告げに来た。

― とっとと消え失せろ。

そう思っていたのに。口をついて出た言葉は理性とは反対の言葉だった。

改めて、机に置いてあった秋帆の退職届を手に取る。暗闇に慣れ切った目には、外からのわずかな光で十分に封筒に書かれた“退職届”の文字を読み取ることができた。

― なぜあのときすぐに承諾しなかった…?

人事部長もあの場にいた。すぐに受理すればいいものを、なぜ保留したのだろうか。

“すべてを肯定されてなくちゃ、ダメですか?”

黒川の脳裏に、秋帆の言葉が蘇る。その言葉にまた胃の中がむかむかしてくるような感覚に襲われ、彼は眉間を押さえたまま封筒を机上に戻した。

― 呑気なことを言いやがって。絶対に許さない!

すると今度は、黒川の脳裏に、封印していた過去が再び駆け巡った。

― 思い出したくない。やめろ、やめろ…。

「お兄ちゃんは、何でもよくできるわねえ。それに比べて隆は…」

抵抗虚しく、その呪詛のような言葉は直接黒川の鼓膜の内側に響いた。



今度は、母が弟に優しい眼差しを向けている映像に切り替わる。

「隆と違って、本当によくできるわねえ」

出来のいい兄と弟。そこに挟まれるようにして生まれたなぜか出来損ないの自分。比べられるのが、ひどくつらかった。

だからがむしゃらに頑張った。だが、兄や弟に及ぶことはなく、結果を残すことはできなかった。

そして、いつからか隆は、家族の話題に上がらなくなった。失敗しても。ダメになっても。叱られることすらなくなった。

家族から存在をかき消され、肯定と否定のどちらもされなかった黒川は、ただ必死に耐えてきた。

そしていつか見返してやると、自分を奮い立たせてここまでやってきたのだ。

「ぐっ…」

頭痛がする。吐き気が喉を昇ってくる。とにかく落ち着かせるために水を飲もうとすると、再び秋帆の置いていった退職届が目に入った。


ふっと湧きあがった感情に戸惑う黒川。そして狂気的な行動に出る…?

感情への戸惑い


“肯定をするのにも理由があるし、否定をするのにも理由があります。そのどちらも聞いてからじゃ、遅いんですか?”

秋帆の言葉が、再び思い出される。

― あの女に、何が分かるっていうんだ。

胸くそが悪い。思い出せば出すほど、怒りがこみ上げてくる。

だが、どうしたことだろう。おかしなことに、怒り以外の感情も湧き上がってくるのを感じた。

― この感情は一体…?

正と負が入り混じり、ぐるぐると心の中で渦巻いている。思わず、唇の端に指を当てた。たしかに、自分の口角は普段より高い位置にあるようだった。

― なぜ俺は、笑っている…?

誰かが自分に真正面からぶつかってきて、そのうえ反論されたのは、人生で初めての経験だった。

黒川は湧きあがってくる感情に、ただただ戸惑った。





翌朝。

仮眠から目を覚ました黒川は、すぐに秋帆のデスクに内線で電話をかけた。だが、出たのは人事部長だった。

彼によれば、業務用のスマホとパソコンは机の上に置いてあり、さらにケースに入ったマンションの鍵も隣に置いてあったという。

黒川は、すぐに秋帆に連絡を取るように指示した。

30分ほど経過した頃だろうか。ドアがノックされ、人事部長が報告にやって来た。

「連絡がとれない?」

「はい。そのようです」

プライベートのスマホも繋がらず、マンションを見に行ったところ、クローゼットの洋服や靴、バッグはそのままだったが、部屋は綺麗に片づけられていたという。

退職届を出したとはいえ、そのまま行方をくらませるとは想定外だった。規定では、退職の2週間前までに申し出る必要があると、彼女も知っているはず。

突然姿を消す社員は他にも五万といたが、秋帆は律儀に規定を守って、業務を全うしてから去ると、思っていた。そう期待していた自分もいる。

「緊急連絡先には?連絡したのか?」

もう一度話を聞いてやろうと思っていた矢先の出来事に、黒川は焦りを隠せない。どうしてこの女には、ペースを乱されてしまうのだろう。

「実家が登録されていました。電話には出られなかったので、留守番電話には入れておきました。折り返しを待っている状態です」

人事部長が、秋帆の緊急連絡票を黒川に差し出す。

「万一、白田さんから連絡があったら俺につないでくれ。絶対だ。いいな?」

人事部長は、なぜ黒川がこんなに秋帆にこだわっているのか、全く理解できていない様子だった。

「はい…。今はとりあえず、親御さんからの連絡を待つしかありませんね」

「そんなこと、分かってる!」

分かり切ったことを述べる人事部長に、つい声を荒らげてしまった。

「失礼しました。それでは、またご報告させていただきます」

怒らせてしまったことに焦った人事部長は、委縮しながら部屋から出て行ってしまった。

― なんとしてでも探し出す。

秋帆とは面と向かって話をしなければならない。そう直感が告げている。

椅子に深く沈み込んだ黒川は、次なる一手を今から探し始めていた。



黒川は、机の上に置かれたモニターに目をやった。秋帆の動向を“確認”するために設置したものだった。

それを眺めていた時、ハッと秋帆の言動や行動が駆け巡った。

― 白田秋帆はきっと、あそこにいる。

根拠も何もない。黒川は急いで、その場所を調べさせた。


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逃げる秋帆と、追う黒川。両者の攻防は一体どうなる…?