高い偏差値を取って、いい大学へ進学する。

それは、この東京で成功するための最も安定したルートだ。

…あなたが、男である限り。

結婚や出産などさまざまな要因で人生を左右される女の人生では、高偏差値や高学歴は武器になることもあれば、枷になることもある。

幸福と苦悩。成功と失敗。正解と不正解。そして、勝利と敗北。

”偏差値”という呪いに囚われた女たちは、学生時代を終えて大人になった今も…もがき続けているのだ。

▶前回:自分よりも低学歴な夫が海外駐在に。復職断念を迫られた妻は、口が滑って…



File2. 沙絵(30)
「私はいつ出産すればいいの?」


「番号札33番の方、2番の診察室にお入りください」

診察室のデスクにあるPCで次の患者の情報を確認しながら、こう呼び出しをした。

総合病院の産婦人科医として勤務する沙絵は、今日も診察室で数多くの妊婦健診に対応している。妊婦検診を担当するのが週に3日、それ以外の2日は帝王切開や腫瘍摘出などの手術の担当だ。

診察室で沙絵の目の前に現れる、様々な年齢の妊婦たち。

東京は高齢出産傾向が年々高くなっているため、沙絵よりはるかに年上の女性もいるが、多くは同い年か少し年上くらいの女性たちだ。

― きっとこの妊婦さんたちに、「この先生は何歳くらいなんだろう?」とか「出産経験あるのかな?」とか、思われてるんだろうな。もしかしたら「出産経験がない先生の診察なんて受けたくない」って思っていたりするのかな…。

ぼんやりと自分の将来を案じながら、診察に明け暮れる毎日。

― こんなに毎日妊婦さんに接しているけど、私自身は一体いつ出産すればいいのかな…高齢になれば妊娠・出産のリスクが高くなるのは、私が一番わかっているはずなのに…。

悶々とする日が続いて、もうどれくらい経つだろうか。

こう考えない日の方がないと言えるくらいに、毎日同じことを考えてしまうのだ。

そんなある日、悩む沙絵の診察室に、とても若い妊婦が入室してきた。


若い妊婦を前に、心が乱れる沙絵

目の前の妊婦は、高校生かと思えるほどに若い。

沙絵は、PCのモニターに顔を近づけてカルテを覗き込む。

その年齢欄には“22歳”とあった。

― この妊婦さん、どれくらいの偏差値の学校だったのかな?年齢から考えれば、きっと大学も出ていないんじゃないかしら。それでも、偏差値70で医科歯科を出た私よりも、ずっとずっと幸せそうだわ…。

目の前の患者に対して、沙絵はついこう思ってしまう。決して褒められたことではないのは、自分でも百も承知だ。



沙絵は、群馬県にある公立トップの女子高を卒業した。

同じく医者で、地元で開業している両親からは、幼い頃から一貫したある要求をされ続けてきたのだ。

それは…、医者になること。そのために、とにかく偏差値を上げること。

そして、両親の要求に応え続け、現役で東京医科歯科大学に合格した。

その時の両親の喜ぶ様は、一生忘れられない。しかし、沙絵が悩むことなく人生を歩んでいけたのは、学生時代までだった。

偏差値や親からの要求など、他者による基準を頼りに人生を歩んできた沙絵は、いつの間にか“基準”や“レール”がないと、自分がどう生きていけばいいのかわからなくなってしまっていたのだ。

新しい命を宿して幸福そうな女性たち。

女性たちを診察しながら、心が揺らぐ自分。

そんな毎日を過ごす中で、沙絵は薄々気づき始めているのだった。

結婚に、出産に、女の人生に、偏差値もロールモデルも存在しないことを…。



沙絵は、研修医時代の先輩医師である祐樹と、昨年1月に結婚した。

引く手あまたでモテまくり、結婚相手を選び放題の男性医師たち。そんな彼らとは正反対に、女性医師たちの婚活市場価値は決して高くない。

年収も高い女性医師は晩婚化傾向が高く、未婚・離婚・結婚の割合がそれぞれ同じくらいいるというのが定説だ。

そのような状況で、沙絵の29歳での結婚は医学部同級生の中では早い方だと言える。

沙絵がこんなにも早く結婚した理由。

それは、近い将来に開業を考えている祐樹から「開業時には結婚して家庭を築いていたい」という強い希望を聞いたからだ。

沙絵の両親の医院は、沙絵の兄が継ぐことになっている。そのため、沙絵が群馬に戻る必要はなく、祐樹の開業に伴い自分も勤務地を変えることは可能だった。

しかし、結婚して新婚気分を味わっていた矢先…。

「私が次に進むべき道は…出産よね?」

こう考えはじめた沙絵に、急激な不安が襲ってきたのだ。

― 今までは、偏差値や目標の女性医師など、何かしら基準を持って生きてきたけれど…。これからどうしていけばいいのかしら?こんなに早く結婚して、まして20代で出産した女性医師なんて全然いないし…。

何も迷うことなく目標まっしぐらに生きてきた医学部までの自分。

そして、祐樹の強い希望という「他者の力」による結婚。

人生の岐路で流されるがままだった沙絵は、ここにきて人生で初めて「自分で決めなければならない」という状況に向き合わなければいけなくなっていた。

もちろん、医師という資格があるのだから、いつでも職に戻れるとポジティブにとらえて妊活することも可能だ。

しかし、現実はそうもいかない。

自分が産休・育休を取ることへの職場への影響を当然考えなければならないし、前から思い描いていたキャリアも歩みたいと考えている。

さらには、妊娠もしていないのに出産後を想像しては、「昔なら偏差値で学校を決められたけど、もう時代も変わっているし、正解がない中で一体どう子育てをしていけばいいのかしら…」などと考えてしまう。

思考はいつも、ぐるぐると無限ループに陥ってしまう。

結局、結婚して1年経っても妊娠出産に前向きになれず、沙絵はできるだけこの話題を夫婦の間でも避けようとしているのだった。

そう、あの祐樹の発言を聞くまでは…。


沙絵が見つけた答えとは?

勤務を終え、久しぶりに仕事後に夫婦で夕食を共にできた日。

沙絵に向かって、祐樹は言いにくそうに口を開いた。

「あのさ、前から言おうと思っていたんだけど、子どものこと…」

結婚以来、出産について思い悩む沙絵に気が付いてか、祐樹が子どもの話を控えているのも薄々気が付いていた。

なので、祐樹の口から「子ども」というワードが出てくるとは思いもしなかった。

不意を突かれた沙絵は、祐樹から思わず目をそらしてしまう。

「沙絵のことだから色々考えているのはわかるよ。でも、考えることも大事だけど、どういう子どもが生まれるのかもわからないし、そもそも授かるかもわからない。

そんな状況で、不安だけ抱えても仕方ないだろ。ちゃんと夫婦で話し合おうよ」

言いにくそうに、でもはっきりとこう沙絵に告げる祐樹。

夫が言っていることは100%正しい。それも頭では理解できる。

だが、反論の余地のない正論を前に、沙絵はこう祐樹に言ってしまったのだ。

「もう少し待ってくれたっていいじゃない!私だって色々考えているんだから…どうして私の気持ちをわかってくれないの!」

別に祐樹は沙絵を責めたわけではない。

しかし、「子どもの話題を避けている」という後ろめたさ故に、沙絵は祐樹にこう怒ってしまったのだった。



翌日の検診の担当日。

いつものように診察室に妊婦を招き入れると、沙絵はカルテをチェックした。

年齢は、自分と同じ30歳。

彼女は先週妊娠が判明したばかりだ。そのため、診察では出産予定日や今後の留意点も伝える必要がある。

しかし、沙絵が説明するにつれ、彼女の顔が曇っていくことに気が付いた。

彼女は言いにくそうにこう口を開いた。

「私、仕事の予定が急に入ることが多くて、2週や4週ごとの検診にちゃんと来られるかわからないんです。出産予定日も部署が一番の繁忙期で、何と言って上司に報告すればよいかわからなくて…」

― ちょっと、今さらそんなこと言わないでよ。今後どうなるかくらい、わかって妊娠したんでしょ?ホント今頃、何を言っているのかしら…。

心の中でそう呟いた。しかし、そう思っているとは悟られないよう、沙絵は彼女にこう告げるのだった。

「お仕事が大変なのは理解します。ただ、今はご自身と赤ちゃんのお体のことを一番に考えていただければと…」

医師という立場上、発言できることは限られている。

そう沙絵は弁えて、常識的な回答を、できるだけ丁寧に伝えるよう心がけたつもりだった。

しかし、沙絵が言葉を続けようとしたその時…。

うつむく彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。

「すみません…産婦人科の先生にこんなこと相談するべきではないのに、同い年くらいの女性だと思ってつい…本当にごめんなさい…」

「……」

スカートに落ちる涙の染みが、どんどん広がっていく。

その様子を見て、沙絵も何も言えなくなってしまっていた。

― きっと私も、この人と全く一緒なんだわ…

妊娠したかどうかの違いはあれど、出産を含めた自分の今後に思い悩むのは同じだ。

そして、目の前にいるこの女性は、妊娠してもなお思い悩んでいたのだ。

もはや、他人とは思えない感情を抱く沙絵。しばらく落ち着くのを待って、こう彼女に声をかけた。

「今あなたにできることは、元気な赤ちゃんを産むことですよ。私も精一杯サポートしますから」

沙絵の言葉を聞いて、彼女は少しだけ顔を上げて、沙絵の目を見て「…はい」と小さい声で答えたのだった。


目の前の彼女にこう言って初めて、沙絵は気が付いた。

そう、妊娠した以上、産むしかないのだ。

会社の上司に何を言われようと、キャリアがどうのと言っても、命よりも優先させるものではない。

そして、正解のないことに対しても、自分で考えて決めていく勇気と責任を持たなければならないことを、沙絵は自覚したのだった。

― ああ、祐樹はきっとこのことを言っていたのね…。

昨晩の祐樹の発言が、ようやく頭だけでなはなく、心で理解できた気がした。



午前の診察終了後。

『今日は何時くらいに帰れそう?イタリアンのテイクアウト買って帰るから飲まない?』

沙絵は祐樹にそうLINEを送る。

― 夫婦で考えなければならないことを避けていたこと、理不尽に怒ってしまったことを謝った上で、「2人でちゃんと考えていきたい」と、私から祐樹に言わないと!

そう心に決めた沙絵は、休憩室を後にして、少しだけ晴れやかな表情で颯爽と診察室に戻っていくのだった。


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