あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

経営者の夫・孝之が、秘書の木村と一夜の過ちをおかしていた。一度は離婚を考えるも、娘の絵麻のために夫とやり直す道を選んだ美郷。

しかし再構築の道は険しく、悩んでいた美郷は、学生時代の男友達・最上が妻の浮気が原因で離婚したことを知り、話を聞こうと考える。

▶前回:「夫は本当に仕事へ行くの?」浮気相手と別れたはずが疑心暗鬼になるサレ妻。そこに救世主が現れて…



目黒駅からほど近い権之助坂沿いのマンションは、かなりの年季が入っているように見えた。

― こんなに近くに最上くんがいたなんて、全然知らなかったな。

そんなふうに思いながら私は、硬いエレベーターのボタンを押す。

ここは、最上くんが経営しているというウェブコンテンツ制作会社のオフィス。昨日メッセージを返してやりとりをした結果、彼からオフィスで会うことを提案されたのだった。

今日、最上くんに会うことは、孝之には伝えていない。古い男友達に会うことがやましいからではなく、私の目的が別のところにあったからだ。

配偶者の不貞による、離婚。

最上くんのFacebookから断片的に読み取れたその情報が事実なら、経験談を聞いてみたい。

再構築生活に早くも限界を感じ始めている私は、とにかく、似たような経験がある人の話を聞きたかったのだ。

そんなこと、孝之に言えるわけがなかった。

でも、エレベーターが上昇していくうちに、私は恥ずかしさを覚え始めていた。

最上くんと会うのは22年ぶり。よく考えなくても、久しぶりの再会でいきなり「奥さんに浮気されて離婚したの?話聞かせて!」と尋ねることなど、失礼極まりない行為だとわかる。

― 私ってば、やっぱりおかしくなっちゃってるんだ。最上くんからの“頼み事”はしっかりお断りして、早く家に帰って家事しよう…。


久々に男友達と再会する美郷。彼の“頼み事”とは?

最上くんからの頼み事。

それは、私と最上くんが中学時代に参加していた留学プログラム・バンクーバーユースセミナーへの寄稿文の執筆だ。

セミナーが今年50周年を迎えるため、日本人OGからの寄稿文を私にお願いしたい、という頼みを受けていた。

「久しぶりに会えて嬉しかった。でも私には務まりそうにないから、ごめんね」

そう言えば、この話はなかったことになるだろう。

私はすぐ家に帰り、夕方の絵麻の帰宅までに家を整える。そしてよそ見することなく、孝之との再構築生活に真正面から向き合うのだ。

ここ数日、私を悩ませていた憂鬱が、また頭をもたげる。

だが、エレベーターが開いた瞬間、目の前に現れたのは予想外の景色だった。私は辛い現実を一瞬忘れて、思わず感嘆の声を漏らす。

壁一面を埋め尽くす温かみのある木の本棚。人工芝が張られピクニックでもできそうなステップフロア。まるで最新のカフェのような落ち着いた雰囲気のラウンジ。

古ぼけた外観からは想像できない広く洗練されたオフィスに声を失っていると、Tシャツ姿の若い男性が声をかけてきてくれた。

「最上とお約束の渡瀬美郷さんですよね?」

「は、はい」

奥のガラス張りの個室へと連れていかれ、ハーマンミラーのアーロンチェアを勧められる。

彼が去った後もソワソワと落ち着かずにいると、ふいにドアが開き、先ほどとは違う、セーターに身を包んだ同年代の男性が入ってくる。

「久しぶり。今は、渡瀬さん…って苗字に変わったんだよね?」

それは、22年ぶりに再会した37歳の最上くんだった。



昔の記憶やFacebookの写真よりも柔和な雰囲気に、一瞬、違う人が現れたのかと思った。

「来てくれてありがとう。早速なんだけど、これね」

最上くんはデスクを挟んで私の目の前に座ると、再会を大げさに喜び合うでもなく、留学プログラムの資料を開いて、淡々と要件を進めていく。

まったく場違いな空間で会う、久しぶりすぎる男友達。

その非日常な状況にガチガチになっていた私だったけれど、昔から変わっていない合理的な最上くんの様子に、いつのまにか緊張はすっかりほぐれていた。

奥さんの浮気と、なぜ離婚という結末を選んだかの詳細を聞きたい。そんな目的はすっかり忘れて、私は純粋な懐かしさと嬉しさで最上くんに声をかける。

「最上くん、全然変わってないねぇ。すごいね。自分で起業して仕事してるなんて!昔からすごーく頭良かったもんね」

実際に、留学先での最上くんの優秀さはずば抜けていた。たしか当時は灘中に通っていて、ロボットコンテストや数学オリンピックなんかでも活躍していた覚えがある。

昔の記憶を辿っていると、最上くんは手元の資料から視線を外し、真っ黒な瞳をこちらに向けて言う。

「起業なんて、誰にでもできるよ。ミサトは?本、作ってるんでしょ?」

「えっ…」

ふいに「ミサト」と下の名前で呼ばれたことで、私の心臓は年甲斐もなくドキッと反応してしまう。

“絵麻ちゃんママ”としか呼ばれない毎日。私を名前で呼ぶのは、今では孝之だけだった。

そんな私の挙動不審な反応を見て、最上くんは申し訳なさそうに眉をひそめた。


自分を呼び捨てにする男友達。動揺した美郷は…

「あ、ごめん。つい昔の癖で。でも、“渡瀬さん”って全然しっくりこないな。昔みたいにミサトって呼んでもいい?」

「あ、うん。私は全然…」

「それで、ミサトは?編集者?自分で書いてる?バンクーバーでもいつも本を読んでて、将来は出版関係の仕事につきたいって言ってたよね。今どんなことしてるの?」

「えっと、私は…」

そういえば、そんな夢を持っていた頃もあったのだ。とうの昔になくした夢を思い出させられた私は、最上くんの視線から逃れたくなり下を向いた。

「仕事、何もしてないの…。大学時代からの相手とそのまま結婚して、今は専業主婦で母親」

彼の前で言うのが、なぜだかすごくみじめに感じた。

一緒に留学していた最上くんは、今こうして立派に仕事をして、こんなに素敵なオフィスまで構えている。

それに比べて私には、孝之との結婚しかなかった。それも、粉々に砕け散った破片を、必死に貼り合わせるようなボロボロの結婚生活。

同じ教育をうけても、人生の結果は雲泥の差。何も持たない私は、こちらから断るまでもなく寄稿文の依頼だって撤回されるかもしれない。

でも、そう思った矢先だった。かたく結んでいる口元をほんの少しだけ緩ませて、最上くんは言った。

「すごい。ミサトは、幸せな家庭をクリエイトしたんだね。それこそ、僕には無理だった偉業だよ」

「最上くんには…無理だった?」



今日の一番の目的だった最上くんの離婚の真相。まさか彼から話してくれるなんて。

過剰に反応してしまいそうになったけれど、そんな私の気持ちなど知るはずもない最上くんは、何気ない雑談の1つとして事情を語ってくれた。

「うん、去年まで結婚してたんだけどね。愛想尽かされちゃったんだ」

「…そう、なんだ…」

「ごめん、辛気臭くなっちゃったかな。でも、結婚ってすごく難しい。赤の他人同士が、相手を尊重しあって一緒に生きていくんだ。…僕は自分のことばかりで、妻を尊重できなかった。

ミサトは僕とは違って、昔から自分のことよりも周りの人を大切にできる人だったね。本当にすごいよ。ミサトが自分の才能を家庭に注いでくれて、ご家族は幸せだね」

「そんな…」

昔から、最上くんはお世辞なんて言わない。いつだって正直に思ったことだけを伝えてくれる。

そんな最上くんから馬鹿にするどころか優しい言葉を送られて、私の目には思わず涙が滲んだ。

「でも、夫が…浮気してたの。私は一生懸命、彼に尽くしてきたのに!」

一瞬、そんなふうに泣き喚きたい気持ちに駆られた。

けれど、そんなことをしたところで最上くんだって困ってしまうだろう。

結局、今私が抱えている事情は何も話さずに「照れるな〜」とその場を誤魔化して、話を終えた。

最上くんの離婚の事情も、それ以上は聞かないことにした。



その後も昔話で盛り上がってしまい、すっかり寄稿文を書くことを断りそびれてしまった。

けれど、不思議と久しぶりに気分がいい。それは多分、最上くんが言ってくれた言葉のおかげだった。

『ミサトは昔から、自分のことよりも周りの人を大切にできる人だった』

『ミサトが才能を家庭に注いでくれて、ご家族は幸せ』

何気ない言葉だったけれど、なぜだか少しだけ、報われたような気がしたのだ。

にわかに気力を取り戻した私は、権之助坂から白金の自宅までの道のりを歩き、途中のスーパーでたっぷりとバターを買った。

明日の朝食に、孝之と絵麻の好物であるクロワッサンを焼くつもりだ。

― 家族のために、再構築するって決めたんだもの。2人を幸せにしなくちゃ。

時刻はまだ14時。絵麻が帰ってくるまで時間があるから、クロワッサンの下ごしらえを済ませてしまおう。

そう考えながら、私は鼻歌まじりで自宅の扉を開ける。

けれど…そんな私の高揚した気持ちは、すぐにどこかへと消え去ってしまうのだった。

玄関で靴を脱ぐ私の背後から、予期せぬ低い声がかけられる。

「おかえり。どこ行ってたの?」

驚いて振り向き顔を上げると、昼下がりの薄暗い廊下に、朝会社に向かったはずの孝之がいた。

そしてその顔には、いつもの穏やかさは見えなかった。


▶前回:「夫は本当に仕事へ行くの?」浮気相手と別れたはずが疑心暗鬼になるサレ妻。そこに救世主が現れて…

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孝之に内緒で、最上と会っていた美郷。上機嫌で帰ってきた美郷に、孝之は…