東京の女には、ホテルの数だけ物語がある。

「ホテル」という優雅な別世界での、非日常的な体験。それは、時に甘く、時にほろ苦く、女の人生を彩っていく。

そんな上質な大人の空間に魅了され続けた、ひとりの女性がいた。

彼女の名は、皐月(さつき)。

これは、東京の名だたるホテルを舞台に、1人の女の人生をリアルに描いたストーリー。

埼玉出身のごく普通の女子大生だった皐月は、社会人になり東京生活を謳歌していた。27歳での結婚願望は見事に砕け散った彼女だが、30歳の誕生日には、思いがけずプロポーズを受けた。



「僕と、結婚してください」

女の人生を変える一言、といっても過言ではない、このセリフ。

私はそれを、30歳の誕生日に、何の心構えもなく耳にすることになった。

目の前に差し出された美しい薔薇の花束、贅沢なスイートルーム。そして、怯えたように瞳を揺らしながら、まっすぐに私を見つめる恋人。

まるで映画のワンシーンを切り取って貼り付けたような光景に、私は柄にもなく本気で心を打たれ、しばらく言葉を失った。

春斗との交際はまだ3ヵ月ほどで、喧嘩などはないものの、特に目立った盛り上がりもなかったから、まさかプロポーズされるなど、本当に予期していなかったのだ。

彼の行動力に尊敬と感動を覚えながらも、しかし私は頭の隅っこで、「来るべきときは、こうやって来るのか」なんて、このプロポーズというイベントを冷静に受け止めてもいた。

「......はい」

やっとそう返事をしたとき、きっと20代とは異なるだろう30代という人生が、ゆっくりと動き出した気がした。


結婚に浮かれ過ぎないよう、自分を自制する皐月だが...?

隠したくても隠せない、結婚を控えた女の幸せ


晴れて「婚約中」という身分になった私は、その甘い響きを持つステータスに、しばし酔い始めた。

女の幸せというのは、隠そうとしても、なかなか隠せないようだ。

プライベートの予定や外見にばかり気を遣っていた20代とは違い、最近の私は転職で収入も上がり、仕事に精を出すようになっていた。

実力主義の外資系の会社では、自分の力量を認めてもらう快感を知ったし、金銭的な潤いは、ある意味で恋愛と同じような充実感をもたらしてくれたからだ。

自分の足でしっかりと地を踏み、自力で豊かな都会生活が送れるようになるのは、単純に面白いことだった。

だから、恋愛や結婚への興味は、以前よりずっと薄くなっていたはずなのだ。

それでもやはり結婚が決まると、私は目についたウェディング雑誌を買い漁り、暇さえあればInstagramでウェディングドレスを眺め、ダイヤモンドについてやたらと詳しくなった。



「最近の皐月は、なんだか穏やかで丸くなったね」
「優しい顔つきになった」
「幸せが滲み出てる」

人に会うたび、そんな風に言われた。

変に浮かれて他人から反感を買うような“プレ花嫁”にはなるまいと決めていたのに、結婚へのハードルが高くなっているこのご時世、自分を妻にしたいと思ってくれる恋人と出会えたことは、やはり幸福だったのだ。

いくら楽しく充実しているとはいえ、女一人の東京生活は、どこか過度に張りつめて、心許ない部分もある。

過去の苦い経験も踏まえ、男性におんぶに抱っこ状態になり過ぎるのは控えたかったが、春斗が恋人から婚約者になったとたん、何だか肩の力もすっと抜けた気がした。

結婚に向けて、私は徐々に面倒臭い女になっていたはずだが、彼は「はいはい」と穏やかな笑顔で答えてくれる、良き婚約者だったと思う。

一度こだわり始めたらキリのない婚約指輪選びには根気強く付き合ってくれ、何度も一緒に銀座に足を運んだ。

結局、予算をだいぶオーバーして1カラットダイヤのGRAFFの指輪を贈ってくれたときは、感激で呼吸困難になってしまうかと思ったくらいだ。

定番だが、『東京 芝 とうふ屋うかい』で赤い振袖を着て済ませた結納も良き思い出で、お互いの両親も満足した様子だった。

昨今では省略可能な結婚のプロセスをあえて丁寧にこなすことで、私たちはお互いにきちんと責任を意識し、覚悟を決めていくことができた。

結婚式はプロポーズされた場所と同じく、『グランド ハイアット 東京』で挙げることにした。

馴染みのある場所での結婚式は縁起が良い気がしたし、『グランド ハイアット 東京』は知名度も高く、アクセスだっていい。

そして何よりも、ホテルでの結婚式は、やはり私の夢だった。


夢のホテル結婚式。しかし、思わぬ落とし穴が...?

楽しく思い描いていた結婚式が、プレッシャーになっていく


結婚式の日程を決めると、急に忙しくなった。

打ち合わせのためにホテルに足を運ぶごとに、決めるべき事項が増えていく。



まずはドレス選びだ。これも拘れば拘るほど、なかなか決めることができない。

王道のミカドシルクのAラインのドレス、レースのマーメイドドレス、ギリシャ神話の女神のようなエンパイアドレスも素敵だし、お色直しのカラードレスに、白無垢や色打掛だって着てみたい。

一生に一度の機会なのだから、かなり値は張るが、ウェディングドレスの最高峰と名高いVERA WANGのドレスを思い切って購入しても良いんじゃないか?

サムシング・ブルーとして、マノロブラニクのハンギシのロイヤルブルーの靴も必需品だ。

ドレスを美しく着こなすため、ブライダルエステにも通わなければいけない。あとマイナス3キロくらいは落としたいし、理想のヘアアレンジのために、髪もあと10センチくらい伸ばせるだろうか。

お互いの職場の同僚や上司も招待する予定だから、食事や飲み物も、もちろん良いものを出す必要がある。

テーブルコーディネートやお花、引出物、招待状や席次表も、中途半端なものでなく、センスが光るようなものを考えたい...。



気づいたときには、私はすっかり結婚式中毒になっていた。

自分なりの結婚式を楽しく思い描いていたはずが、あまりに多くの情報を取り入れ過ぎたことで、今度はプレッシャーが膨らみ、ストレスになっていったのだ。

何か不備があって、陰で文句を言われたらどうしよう。もう30代なのだから、品格のある、ゲスト優先の式にしなければ。

かといって、あまりに細部まで拘りすぎて、はりきりすぎた花嫁とも思われたくない。

色々と追求しすぎたため、かなり高額となった結婚式の見積もりを目にしたときは、春斗もさすがに顔を歪めた。

「皐月、ちょっと神経質になり過ぎなんじゃない...?」

自分でも十分承知の痛いところを指摘されると、私は反論もできずに、ただ恥ずかしさで一杯になった。

“一生に一度”という免罪符を手にした花嫁の自己満足と、ゲストのための“おもてなし”の塩梅のバランスが、全く分からなくなっていた。

認めたくなかったが、私は知らぬ間に、やたらと結婚式に執着する痛々しい花嫁となっていたのだ。

「だったら、春斗が全部決めてよ!」

せっかく順調で平和な交際を続けていたのに、私はこのとき、初めて春斗に声を荒立てた。

お決まりではあるが、私たちは結婚式の準備で、完全に険悪なムードとなった。


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結婚式に執着し、情緒不安定となった皐月。無事に乗り切ることができるのか...?

<撮影協力>
グランド ハイアット 東京
公式HP:https://www.tokyo.grand.hyatt.co.jp/