【悼む】長嶋茂雄さんが亡くなった――。1996年から退任される2001年まで巨人担当として常に背中を追った。太陽のような笑顔、勝負師の厳しい目、不甲斐ない結果に感情むき出しの怒った顔、悩んでいる顔、報道陣をからかう時の子供のような目…全てが脳裏に焼き付いている。

 人の名前を覚えないと言われた長嶋さん。最初はその他大勢で目にも入らなかっただろう。2年目にやっと認識してもらい「東スポ」に昇格。巨人担当キャップ1年目の1999年の春のキャンプで「本間君」と呼ばれた時は本当にうれしかった。

 思えば随分とお世話になった。遠征の帰路、チームとは別便の新幹線で移動する際、グリーン車に同乗すると必ず到着前に5分間、取材時間を割いてくれた。恒例の朝の散歩前にご自宅を訪ねると「どうした。今日はサインか、それともネタ(原稿)か」と聞かれるのがお約束だった。サインだけお願いしたある日、「何だ、今日はネタはいいのか」と聞かれ、あわてて質問を考えたこともあった。

 また、朝刊紙などで采配を批判されると監督室や球団ブースに招き入れてくれて一対一で真意を説明してくれた。おかげで何度も1面を書かせてもらった。

 そんな長嶋さんとのやり取りで一番印象が強いのは「永遠の10秒」だ。巨人の監督を勇退された2001年12月に東京・大手町の当時の読売新聞社本社の専務室を訪れる幸運に恵まれた。

 正月号用の取材や読者プレゼント用の色紙をお願いする中で「監督、ウチで評論家やってもらえませんか」と聞いた。もちろん、本気ではない。長嶋さんは報知新聞社の客員を務めており、100%可能性がないことは百も承知。「何を言ってんだ。東スポでは俺の給料払えないぞ」と笑い飛ばされて終わる予定だった。

 ところが、長嶋さんは一笑するどころか沈黙。それも真顔だった。1秒、2秒、3秒…。

「まさか、『いいよ』と言われたら大変なことになるぞ」といらぬ心配が脳裏をよぎったほどだ。

 沈黙の後、長嶋さんの口から出たのは「現役時代から義理があるからな。無理だな。その代わり出来ることなら何でも協力するよ」との温かい言葉だった。

 時間にして10秒ほどだっただろうが、とてつもなく長く感じ、背中に冷や汗をかいていた。当時専属広報を務めていた小俣進氏も「変なこと聞くなよ。『分かった』って言うんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたぞ」と驚いていた。

 長嶋さん、東スポ、巨人担当を可愛がってくださりありがとうございます。ゆっくりお休みください。

(96年〜05年巨人担当・本間壮児)