【越智正典「ネット裏」】久しぶりに1965年プロ野球第1回のドラフトで巨人に2位で指名されて入団した、鎌倉学園の左の長距離打者・林千代作に会った。このときの巨人の指名は1位が甲府商業の堀内恒夫。入団第1年の66年4月14日、中日球場での中日戦でデビューした。前夜、先発と聞いて、甲府商業の監督、「菅沼水晶」社長、菅沼八十八郎が「マウンドに立ったら第1球をバックネットにぶつけろ!」。堀内を落ち着かせるためだったが、併せてファンを沸かせるためだった。「甲州の宝は武田信玄の昔から人です。第1球は打ち上げ花火の代わりです」

 3位は慶応大の内野手江藤省三。69年、中日にトレードになったが二軍。しかし、お客さんが30人余しか入っていないウエスタン・リーグの試合でグラブを叩き、「さあー来い!」と叫び続けていた。

 林はこの日、北鎌倉から東京に出て来て用事を済ませた帰りだった。彼は会うといつも、鎌倉学園では入れ違いだったが、竹之内雅史(日本通運浦和、西鉄、太平洋、クラウン、阪神)の話を始める。竹之内は大阪・浜寺の羽衣国際大学元客員教授、現野球部総監督だが、この日も林は先輩を語り出した。「竹之内先輩はいい男です。ちょっとしたことを、さりげなくやってくれるんです」

 そういえば昔、西鉄時代、彼が住んでいた博多の団地を訪ねると、朝早くから粗大ゴミの片付け、水汲み、団地の清掃をやっていた。ナイターに備えて寝ていても不思議ではないのにだ。69年秋に発覚した黒い霧事件。70年、小倉球場での西鉄―阪急戦でお客さんが7人しかいなかった辛さを体験している。彼には朝の団地の手伝いなど、どうということはない。現役15年、通算166死球は球に向かっていった闘志のプロ野球記録である…。

 林は「ホテル竹園芦屋の料理長だった梅田茂雄先輩は竹之内先輩と同期の鎌倉学園の三塁手ですが、いまでも竹之内先輩に感謝しています。95年の阪神・淡路大震災で、竹園も梅田先輩の家も甚大な被害を受けました。1週間がたったとき、竹之内先輩がたずねたずねて半壊の梅田先輩の家にやってきて“オーイ、オレんちに風呂に入りに来いよ”と、梅田先輩夫婦と娘さん、息子さんを誘ったんだそうです。あとで梅田先輩が電話で知らせてくれました。“水道もガスも止まっていたので、ありがたい風呂だったよ。このとき竹之内がつくねのチャンコ鍋を作ってくれたんだ。これが美味くてな。高橋由伸は慶応大出身だけど、高校は同じ神奈川県の桐蔭学園だろう。きっとわかってくれると思って竹之内チャンコを作って出したら受けたよ”」。こんな話をする林千代作も、いい男である。折々にプロ野球の父、正力松太郎が眠る円覚寺を訪れてお参りをしている。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)