【越智正典「ネット裏」】「水分補給」などというコトバもなかった昔、野球界では軍事教練のときと同じように“水を飲むな。飲むとからだがだるくなる”と言われていたが、終戦時、千葉商業の軍事教練の銃剣術の教官であった、阪神二軍監督掛布雅之の父泰治は、中等野球(高)が復活すると、校長に言われて野球部監督に。そのあと野球部長に。1946年夏、千葉予選決勝で成田中(高)とぶつかった。千葉医大グラウンドに見に来たファンは水は飲ませなかったが、掛布先生がバケツに氷を入れて持ってきて、冷やし手ぬぐいを作って選手のオデコに当てていた。いたわりの姿を尊敬していた。

 福島県学法石川は甲子園へ春3回、夏9回のいいチームである。すべては監督柳沢泰典の人柄に始まっている(9回目は総監督。試合中、左翼席で倒れる)。柳沢は春休みになると、選手の父母に多くの負担をかけてはいけないと、同じ春休み中の幼稚園に頼んで遠征宿舎にして選手を鍛えた。そして夏。同校グラウンドは山の上。選手は家のマヨネーズの容器に水を入れて持ってきて、左翼うしろの林の中に隠していた。大きな当たりが林に飛び込むと、大喜びで球拾いに行ったが、容器の水はお湯になっていた。内野手はそうはいかなかった。名将下でも上級生の目が厳しく、水を飲めなかった。80年代になってもそうであった。

 和歌山県立箕島高が春夏連覇したのは79年のことであるが、三塁コーチ、実質的には“助監督”であった中本康幸(湯浅町給食センター長)は、いまも楽しそうに「あの夏の3年前の76年から、うち(箕島高)は水分補給をやっておったんですわ」。

「ことのはじまりは、6回までいい球を投げているのに、7回になると疲れが出て完投できない先輩が尾藤公監督に“どうしたらいいですか”と相談したんです。こういうときの尾藤監督は偉いんです。無我なんですよ。すぐ有田の町の“おとうさん”お医者さんの楠本博一先生に聞きに行ったんです。先生が“それだったら、レモンの汁とハチミツでカクテルを作って、3回投げたら飲ませなさい。その次は6回にですよ。水も飲ませなさい”。すると先輩投手がスイスイと完投ですわ。尾藤監督は“これはええ。みんなにも飲ませよう”となったのです。スイカもみんなで食べましたよ。水も飲んだし…。それで79年連覇の甲子園へ行くときは、カクテル、水、バナナ、おにぎり、サンドイッチ…を持って行きました。にぎやかで遠足気分でしたわ」

 こう話してから、普段は決して自慢をしない中本が、珍しく胸を張った。

「あとで全国的にスポーツドリンクを発売することになる会社の研究員さんが、どこから聞いてきたのか、2人1組で何度も楠本先生と尾藤監督のところに教わりに来ていましたよ。あの有名になったドリンクは箕島産なんですわ」 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)