リスグラシュー、コントレイル、ラヴズオンリーユー、マルシュロレーヌ。2018年以降、国内外で歴史的活躍馬を送り出した矢作芳人調教師が、2023年にさらなる勲章を手にした。管理馬パンサラッサが世界最高賞金レース・GⅠサウジカップ(2月25日)を逃げ切ったのだ。この勝利で2016年に東スポ紙上で語っていた基本思想はより価値の高いものになった。これを機会に〝世界のヤハギ〟の原点を再度味わっていただきたい。
(※この連載は16年6月20日〜9月8日東京スポーツに掲載されたものです)

新人は絶対にいい馬をやらせてもらえない

 1984年10月。僕の新しい生活がスタートする。JRA競馬学校の厩務員課程を卒業し、向かった先は滋賀県の栗東トレーニングセンター。大井で生まれ育った僕の出身地は東京だが、同じ関東圏の美浦トレセンではなく、栗東で働くことになった理由は単純明快。栗東で調教師をしていた坂田正行が母タキの兄だったからだ。

 しかし、残念ながら伯父の厩舎には人員の空きがなく、紹介してもらう形で最初の所属先になったのは工藤嘉見厩舎。ここで仕事をしたのは2年半ほどだったと思う。残念ながら目立つような活躍はできなかった。

 栗東トレセンで働き始めた当時の僕の正直な感想は「中央の人間は仕事をしないな」。一人の厩務員が担当する馬の数が単純に少ない。地方競馬と違い、朝もそれほど早くなかった。ずいぶんと仕事が楽だ。そう感じたのを覚えている。それでも働き始めた当時は熱意に燃え、一生懸命に働いていた。しかし、時間が経過し、周囲の状況を見る余裕が出てくると、どうしてもわかってしまうことがある。「新人は絶対にいい馬をやらせてもらえない」。この事実が僕を腐らせてしまった。

 馬の性格などを考えたうえで、担当馬を割り振ることは現在でもある。人間と同じように馬と人の間にも相性というものがあるからだ。しかし、当時は違う。性格でも能力でもなく、キャリアの長さだけで担当馬が決まっていく。入ったばかりの新人は故障続きの馬、もしくは他の厩務員が捨てた馬しか回ってこなかった。いい競馬ができるのは、アラブが当たったときだけだが、ちょっとでも走りそうだとわかると、それも簡単にベテランの手へと渡る。厩務員課程の試験に落ちても腐らなかった僕だが、この公平でない状況には納得がいかなかった。

「僕、重いですけど」

 トレセンで仕事をして2年ほどが過ぎたある日のこと。僕は別の厩舎の調教助手だった福崎明義さんという方と一緒の馬運車になった。彼が僕にこう言う。「菅谷(禎高)さんが厩舎を開業するから一緒に来ないか」と。正直、開業前の菅谷先生は周囲の評判というか、人気があまりなかったように記憶している。僕に声がかかったのも“積極的に来たがる人間がいなかった”という背景があったからではないか。すでに調教助手になっていたとはいえ、当時の僕は体重が重かった。そんな人間を攻め(馬)専門の調教助手として迎えるのだ。それなりの理由があったと考えていい。

 だが、そのプロセスがどうであれ、僕の人生はこの“勧誘”によって大きく変わった。僕は菅谷先生に会い、改めて確認する。「僕、重いですけど、本当に“攻め専”でいいんですか?」

 二つ返事だった。87年の3月、僕は菅谷厩舎に移籍。常に順風満帆だったわけではないし、人間なので途中でもめたこともあった。それでも菅谷先生は僕にとって、師匠と呼べる唯一の人物だ。この場所で僕は多くの経験を積み、現在に至るまでの下地を作っていく。

 ☆やはぎ・よしと 1961年3月20日生まれ、東京都出身。84年、厩務員として栗東・工藤嘉見厩舎入り。86年同厩舎で調教助手に転身。2004年に調教師免許を取得し、05年に開業し3月26日テンザンチーフで初勝利。14年JRA賞(最多勝利調教師)など表彰多数。

著者:東スポ競馬編集部