しかも、これにさらにヘンな条件が加わる。NはMと上記の契約をした翌日に「明日、Gを呑む」という約束をMに伝えなければならない。いいでしょうか、契約が8月1日だとすると、NはMに翌8月2日に「明日の3日にGを呑む」と伝える。そうすると、MはただちにNに10万円を振り込む。しかも、Mはその翌日にNが実際にGを呑むかどうかを一切追及しない。以上、およそ考えられるかぎりのバカげた契約ですが、意味はわかりましょう?

さて、カフカがこんなヘンな契約をもち出した理由はだんだんわかってくると思いますが、まずは心を柔軟にして考えてもらいたい。Nは約束どおりに、Mに「明日Gを呑むこと」を連絡し、ただちにMからの10万円の振り込みを確認しました。しかし、その時点で、急に明日薬を呑むことがイヤになった。なぜなら、もう10万円はもらったし、後遺症はないとしても、その後長時間不快感を味わいたくないからです。

さて、はたしてこのNは、合理的なのでしょうか、それとも非合理的なのでしょうか? ここで、見解がまっぷたつに分かれる。カント的理性主義の立場では、Nは当然Gを呑むべきです。なぜなら、Nは契約を結んだ時点でそれを履行する義務があるから。すなわち、合理的とは、快苦とは一切関係のない理性レベルの概念であって、どんな人でも約束は守るべきだから守るべきなのです(これをカントは「定言命法」と言う)。そして、これが、現代日本でも大部分の人が支持する考えではないか、と思います。

すでに10万円もらったNは約束を守るべきか?

しかし、思い出してください。Nはもう10万円受け取ったのであり、MはNがGを実際に呑むかどうかを確かめないというのですよ。そして、NがGを呑めば、24時間も不快感が続くのですよ。こんな条件において、NがGを呑むのは、ただ馬鹿正直だけであって、まったく合理的ではない、という見解があっても不思議はない。「約束は守るべきだから、守るべきである」という理性の大原則なんてものとはただの幻想ではないのか? みな、ただ教育によってそう信じることを暴力的に強制されているだけであって、その内実はからっぽなのではないか? こうして、Nは快を増し(10万円を手に入れる)、不快を減らす(Gを呑まない)ように行為するほうが、ずっと合理的である、という見解は一応成り立ちます。

この場合、NがGを呑まなくても、誰も(Mも)被害を受けないということがポイントです。Gを呑めば、ただNひとりが24時間不快になるだけ。古典的理性主義の立場では、NはMの信頼を裏切ったことになり、このこと自体が、(Mがそれを知らなくても)悪なのだと考えたくなる。しかし、これって単にNの内面の問題(あえて言えば自己満足)にすぎないとも言えます。

こうした見解は、善を幸福と同一視する広い意味での功利主義ですが、もう1つ理性主義と対立する見解があって、ヒュームがその典型ですが、「情緒主義」と呼ばれています。これは、そのつどの情緒(感情)を行為の規準にするもの。これは理性主義に最も対立し、たぶん現代日本人の道徳観にも最も対立するのではないでしょうか。先の例に戻ると、NはGを呑む必要はまったくない、なぜなら、NはMから約束をもちかけられたとき(t1)には、Gを呑んでもいいと考えていたのですが、10万円振り込まれたとき(t2)には、突如呑みたくなくなった。Nは、ただそのつど湧き上がる情緒に従って行為しているだけであって、t1とt2を貫く人格の同一性など認めない。これこそ、最も合理的だという言葉遣いをしても、まったくの誤用ではないでしょう。