さて、以上、理性主義、功利主義、情緒主義の原則を述べただけですが、具体的に考えていくと、それぞれそう見えるほど互いに隔たっていないことがわかる。たとえば、以上の見解では、MはNにとって純粋に1回限りの関係を結ぶ人として登場しているのですが、こういうことは人間関係においてはきわめて稀です。Mがこの場合に限ってNの約束履行を追及しないとしても、Nがいつもその純粋形態で功利主義や情緒主義を実践しようとするなら、普通は他人に嫌われ、社会的信用を失うハメになる。 

ですから、視点を逆にすると、もし長い目で見て快や利益を規準にして行為するなら、Nは個々の場合を切り離してではなく、さらに広い視野から全体としての利益を求めるに違いない(これを規則行為主義と言う)。こうして、誰でも実践しているように、Nは長い目で見て信用を得るためにはさしあたりのソンをも容認するのです。 

同じように、Nがそのつどの情緒にあまりにも「忠実に」従って行為していると、必ず不利益をこうむるし、誰も相手にしてくれないかもしれない。それで、長い目で見て(ときには)自分の情緒に反しても約束を守るという態度に出るわけです。

しかし、情緒主義は、一見未熟でわがままな見解に見えますが、じつは意外に広い視野をもっている。たとえば、いつも約束を守っている理性主義の人のうちかなりの人が、じつは「そう行為すると気分がいいから、そう行為しないと気持ち悪いから」という情緒に基づいているのではないか? これは自分で判定することは不可能ですが、自分の行為に出るときの意志にはそんな不純な情緒は1点も含まれていない、と断言できるかどうかは疑問でしょう。 

こうして、大部分の現代日本人は、基本的には功利主義に立ち、ときには(比較的どうでもいい場合や、逆にとくに自分の信念に直結する場合は)情緒主義をとり、名目上は理性主義をとっているように思われる。そして、興味深いのは、われわれは、他人の行為を判定するときにも、基本的にこの秩序を適用しているということです。

誰か(S)の行為が理解できるのは、まずそう行為することがSにとって何らかの意味でトクだということがわかったときです。逆に、Sの行為していることがとくにSにとってトクにならないように思われるとき、われわれは急速に思考を切り替えねばならない。そして、それがSの信念なのだとか、欲望に逆らえなかったのだとか、とにかくそうしたかったのだ、という落としどころを求める。そして、そんなときの1つとして、大義名分の理性主義的解釈が登場するのではないでしょうか?

「ひたすら国民のためを思って」という最悪のウソ

こうして、初めに戻って、Nが、はたの目にはどう考えてもトクにはならない行為に出ているときに、Nが「約束は守るべきだから守るべきである」という定言命法に従っているのだ、と解釈するのは相当難しい。しかし、――これが重要です――それにもかかわらず、われわれは、他人に理性主義に基づいて行為しているという「お話」をしてくれることを期待し、むき出しの功利主義や情緒主義に基づいて行為していると語ることを固く禁ずるのです。

安倍晋三首相も、菅義偉官房長官も、稲田朋美防衛大臣も、金田勝年法務大臣も、このことをよく知っているので、事実そうであったとしても、「それが私(われわれ)のトクになるからしました」とも「そのときの気分に誘われてしました」と語ってはならないのであって、だから、必然的に「1点の私欲もなく、ひたすら国民のことを考えて行為しました」というウソばかりの答弁になってしまうのです。

たぶん、そういう面も(少なくともわずかには)あるでしょう。しかし、カントは、これを「善意のウソ」と呼び、ウソのなかで最も悪質なウソとみなしました、なぜなら、こう語るとき、人は他人を騙すのみならず自分も騙し、さらに「国家のためには仕方ないという(広い意味での)善意に基づいている」と思っているからです。