近年、職業の数、すなわち「働き方のバリエーション」は、激減しています。今では、働く人のおそらく9割以上がサラリーマン、すなわち、企業という組織の一員として働くようになっています。

もちろん、ひと口に「サラリーマン」と言っても、その内実を見れば多様です。ただ、少なくとも表面的には「職業」の多様性はものすごいスピードで失われています。職業の多様性が失われているということは「サラリーマン的な働き方に向いた人」以外は、どうしても心のどこかで「自分はこの仕事に向いていないんじゃないか」というストレスを抱かざるをえない、ということです。

言い換えれば、今の社会は、表面的には「職業選択の自由」が保証されているけれど、実は「職業」の多様性が激減していて、「選択肢そのものが少なくなって職業を選べない」という状況になっているのかもしれない、ということです。確かに、辞めたければいつでも辞められるし、転職もできる。でも、「自分はサラリーマンに向いていないのではないか」と感じている人にとっては、会社を辞めようと考えたとき、「自分が生きていける場所はこの世界にはもう存在しないのではないか」という不安がよぎるのです。

「天職」に出会うのは困難なこと

少なくとも法律上、私たちは勤める会社を自由に選ぶことができます。しかし、自由に選べるということは、裏を返せば「その会社でなければいけない」という必然性もない、ということでもあります。

江戸時代には身分制度があり、職業選択の自由はありませんでした。農民の子は農家を継ぎ、武士の子は武士になるという社会では、そもそも「向き・不向き」について悩む余地さえありませんでした。しかし、それが果たして「不幸」なことだったのかは、少なくとも簡単に割り切れない側面が残っている、と僕は思います。

想像してください。あなたは江戸時代に、50年続いた金魚屋の長男として生まれました。幼い頃から父親が金魚の世話をしたり、稚魚を買いに行ったり、大名屋敷の池に金魚を納品するのを見てきました。あなたはごく自然に「自分も大人になったら、この金魚屋さんを継いで商売をするんだ」と考えます。

ここには確かに「自由」はありません。しかし、あなたはそれを「不幸」だと感じるでしょうか? 少なくとも、「金魚屋さんをやる」ということについて、現代人が会社勤めをするのとはまったく次元の異なる、強い必然性を感じる場合があるのです。

「天職に出会う」という表現があります。天職というのは「向き・不向き」以前に「私はこの仕事をするために生まれてきたんだ」と心の底から思える職業のことです。現代のように「この仕事でも、あの仕事でも、どんな仕事でも選ぶことができる」という状況は、最も「天職」に出会うことが難しい社会だと言えるかもしれません。

誤解のないように申し上げておきますが、僕は別に「江戸時代のほうがよかった」という話をするつもりはありません。基本的には、功罪あったとしても、少なくとも7対3以上で、昔よりも今のほうがいいことのほうが多いと思います。