江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜は「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれる。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載を10回(第1回はこちら)にわたってお送りした。

その慶喜の最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。ペリーの黒船が来航して開国を迫られる中、江戸幕府は徐々に求心力を失い、衰退の一途をたどった。そんな幕末期に、長らく存在感が希薄だった天皇家が注目されることになる。開国か、攘夷か――。外国と交易するか、拒絶するかで、国内世情が揺れ動く中、孝明天皇は攘夷派の代表として多大な影響力を持った。

だが、幕末期に存在感を発揮した人物の中でも、孝明天皇については語られることが少ない。孝明天皇とはいったい、どんな人物だったのだろうか。その周辺人物にも触れながら、第1回となる今回は、孝明天皇が幕末史の表舞台に出る契機となった、日米修好通商条約を中心にお送りしよう。

日米修好通商条約の締結に「激怒」

安政5(1858)年6月19日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号で、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約が締結された。日本側の全権は、下田奉行の井上清直と、海防掛目付の岩瀬忠震である。この条約によって、神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港される。

条約の締結に怒りを露わにしたのが、孝明天皇である。左大臣の一条忠香が嘉永7年7月から文久3年に至るまでに書いた日記『一条忠香日記抄』には、そのときの孝明天皇について、次のような記載がある。

「主上には、はなはだ御逆鱗のご様子にて」

主上とは「天皇」のことだ。まさに「逆鱗に触れる」と表現するにふさわしい怒りだったことは、想像にかたくない。

なにしろ、この条約については、事前に老中首座の堀田正睦から話があり、孝明天皇はきっぱりと拒否していた。それにもかかわらず、幕府は勅許を得ることなく、つまり、天皇から許可を取らないままで、日米修好通商条約を締結してしまったのである。

怒りを買ってしまった幕府からすれば、孝明天皇の拒絶は大誤算だった。条約締結までの経緯を少し振り返ってみよう。