江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜。その最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。攘夷派の代表として多大な影響力を持った孝明天皇は、幕末におけるキーマンでありながら、語られることが少なく、実態はあまり知られていない。

いったい、どんな人物だったのだろうか。第2回となる今回は、孝明天皇の最大のライバル、関白の鷹司政通(たかつかさ・まさみち)との戦いについて紹介しよう。

〈第1回のあらすじ〉
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結。これに孝明天皇は激怒する。孝明天皇は外国との通商をかたくなに拒んでいた。その背景には、京から出たことすらない孝明天皇にとって、外国人や外国船は異質すぎたこと、さらに強硬な尊王攘夷派であった水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の実父)に「外国人が傍若無人な振る舞いをしている」と伝えられ、憎悪を募らせたことがある。孝明天皇からしてみれば、外国人の貿易と居住も認める日米修好通商条約を結ぶことなど論外だった。

第1回:徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」なぜか知られぬ実像

日米和親条約のときには反対しなかった

幕府が勅許を得ることなく、日米修好通商条約をアメリカと締結したことに、孝明天皇は激怒する。異国嫌いの孝明天皇は、それ以前のペリー来航時から、異国の傍若無人な態度に腹を立てていた。

とはいえ、直接見聞きしたわけではない。孝明天皇の怒りをあおったのは、水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の父)である。孝明天皇は、関白の鷹司政通(たかつかさ・まさみち)を通じ、斉昭の書いたこんな批判的な文書を目にしている。

「ペリーの態度は失礼極まりなく、日本を侮辱している」

ペリーに感情をかき乱されたのは、斉昭や、それを聞かされた孝明天皇だけではない。朝廷の公家たちも不安に襲われ、ペリーが日本からの返答を聞くために再度来訪するころには、朝廷は京都所司代に京都の警護強化を要望している。

それにしても、なぜ、孝明天皇はペリーとの日米和親条約のときは、反対しなかったのだろうか。