昭和40年代後半から昭和、平成にかけて、日本全国を走る特急列車網のなかで「庶民派特急」として人気を誇ったのが「エル(L)特急」であった。高度成長期からバブルの絶頂期へと突き進んだ時代、当時のモーレツサラリーマンのように働きバチのごとく走り続けたエル特急の栄光を振り返ってみよう。

特別急行列車(特急)といえば、かつては庶民には高根の花の列車だった。食堂車やビュッフェ、1等車(グリーン車)を備えた豪華列車という感覚で、利用するのは一流企業の部課長クラスや政治家、芸能人など富裕層が多く、筆者を含む一般庶民や学生の旅行はもっぱら急行列車の自由席利用だった。

この特急の「ハードルの高さ」を打破したのがエル特急であった。

本数と自由席が自慢

エル特急の名が登場したのは1972(昭和47)年10月。当時の国鉄旅客局がサービス向上の一環として生み出した。エル特急の「L」が何を指すのかは所説あるが、Light、LoveなどLは明るいイメージであること、特急が英語で「Limited Express」と言われることから「エル」の冠文字が付けられたという。

エル特急を大々的にPRしていた国鉄時代の西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)(筆者撮影)

エル特急はいつでも気軽に乗れるよう、運転本数を増やして自由席を設け、さらに始発駅の発車時刻を毎時00分や30分など区切りのよい設定とした。「数自慢、時刻表不要のエル特急」のキャッチフレーズが特急列車をより身近なものとした。

この定時発車のパターンダイヤは、1970年代初頭にイギリスで誕生したインターシティ(都市間高速列車網)を参考にしたといわれている。

その1つとなった、ロンドン―エジンバラ間を結ぶ伝統的列車「The Flying Scotsman」(フライング・スコッツマン)は、19世紀の運転開始時から始発駅のロンドン・キングスクロス駅午前10時ジャスト発という時刻を守り抜いていたので、ほかのインターシティもそのジャスト発車に従い成功を収めた。以後、イギリスのインターシティ網はドイツをはじめとする鉄道先進国の模範となり、エル特急の見本にもなったとされる。