また、岐阜県大野郡丹生川村(現高山市)では、農繁期に亡くなると、先に埋葬し、その後に改めて葬儀をしていた。旗鉾村のある家では、7月の養蚕の忙しい時期に父親が亡くなったため、埋葬だけ済ませ、9月になって本葬をした。その時は、小さな棺をつくって担いで行ったという。他の地区でも同様の例が見られ、「農繁期で忙しいなどの理由で、埋葬の後で時間を経て本葬を行うという形態があった」(最上前掲書)。

和歌山県東牟婁郡串本町古座でも、カゲカクシやカゲヲカクスと呼ばれる、葬儀前の埋葬が行われた。墓掘りは、通常は早朝に行われるのに対し、カゲカクシの場合には午後に掘る。棺を運ぶ乗り物は、通常は輿で昼間に公にして担ぐのに対し、夜半に専用の駕籠で密かに下げていく。埋葬時間も通常では午後であることに対し、カゲカクシでは夜半だ。このような対立的な儀礼によって、「正規の葬儀ではなく、仮のもので本葬とは異なることを強調したものと考えられる」という(山田 前掲誌260号)。

葬儀に参列できない時は追悼会も

なお、土葬が比較的遅くまで行われていた地域では、骨葬も多く実施されており、葬儀当日に納骨するために、葬儀前に火葬を持ってくることで、葬儀のプロセスを大きく変化させないための対応だったとされる。

さて葬儀に参列できない場合には、それぞれの場所での「哀悼会」「追悼会」「遥葬会」などと言われる会も、近代に入ると行われるようになる。例えば、日本全国規模で追悼会が行われたのは、多くの弟子をもった大学創始者、慶応義塾の福沢諭吉や早稲田大学の大隈重信である。

福沢諭吉は、1901年(明治34年)2月3日に三田の自宅で亡くなった。『福沢先生哀悼禄』によると、8日午後1時、自宅を出棺し、2時頃に麻布善福寺で葬儀を行い、大崎村の本願寺管理の墓地に埋葬された。この葬儀の同じ日に、全国各地で行われたのが追悼会である。