コロナ収束を我慢強く待つ“夜明け前”、個々に向き合わざるをえない、やるせない思いや不安……コロナ後にせりだしてくる「情」の荒波をどう生き抜くか。『〈新版〉夜明けを待ちながら』のリバイバルで注目の五木寛之さんインタビュー後編。

前編:五木寛之「長く深い夜には夜の生きかたがある」(7月14日配信)

音楽として始まった仏教から学ぶこと

――前編(五木寛之「長く深い夜には夜の生きかたがある」7月14日配信)では、「情」と「理」という話題から、コロナ後の世界では感情が大きな問題になってくるという話をうかがいました。そういう時代に、情理を兼ね備えるにはどうすればいいんでしょうか。

五木 寛之(以下、五木):言葉の問題で考えると、「情」は「声の言葉」であり、「理」は「文字の言葉」なんですよ。言葉は思想を伝えるものだけど、思想の骨組みだけを伝えても大事なことは人には伝わらないんだと思う。

たとえば仏教がどんなふうにして広がっていったかというと、ブッダの話を人々が聴くことから始まるんですね、仏陀がブツブツと言ったことを、弟子たちが一生懸命暗記する。すると今度は、弟子たちは町へ出て、仏陀の言葉を広く人々にそれを伝えようとする。その際、どうするかというと、覚えやすく、耳に入りやすいように、仏陀の言葉を、偈(げ)にしたんです。偈(げ)というのは宗教的な歌のことですね。

中村元さんが訳されている初期の仏典を読むと、同じ文句が何遍も繰り返されているんですが、あれは歌だからリフレインなんですよ。だから仏教っていうのは、音楽として始まったんですね。

仏教には「聞法(もんぽう)」という言葉があります。これは教えを聞くことで、真実を知るという意味がある。つまり真実を知るとは、耳で聞くことであって、目で読むことだけではない。字を読んでいくのも大事な作業だけど、声に出して読み、それを聞くことのほうがはるかに大事なことなんですね。

――『コーラン』も非常に音楽的だと聞いたことがあります。

五木:音楽というものは、宗教の中では根本的に大きなものだと思っています。ところがグーテンベルクが活字印刷を発明して以来、活字や書物に対する偏重が生じたため、書かれた物を目で読むほうが上等なことのように思われるようになりました。

それは情を捨てて、理を偏重することでもあったんです。声を耳から聞くことは、理を知るだけじゃなくて情感が伝わってくるんですよ。表情や語り手の身振り、声質、口調などから、おのずと情は伝わってきます。それに対して文章は、中立的で冷静ですから、情を拭い去って論や理だけをきちっと理解させる。

感情に左右されないという意味では、文字は大事だけど、文字だけでは情が抜け落ちてしまう。情理を兼ね備えるというのは、声と文字両方を大切にすることなんです。