初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが、13代将軍の徳川家定に謁見したのは、安政4年10月21日のことである。ハリスはアメリカ大統領フランクリン・ピアースの親書を提出。幕府は、公の場でアメリカ側から通商条約の交渉を要求されることとなった。

このとき、老中在任のまま39歳の若さで病死した阿部正弘に代わって、幕府で実権を握っていたのは、老中主座の堀田正睦である。要求を受けて、堀田は11月11日、諸大名に意見を求めている。

もっともこのときは、ペリー来航時のように、広く意見を求めたわけではない。江戸城に登城していた大名は、出自や官位により詰める席が決められていたが、その中で溜詰・大廊下・大広間の大名にのみ、通商条約に対する考えを聞いた。

すると、大多数から条約締結に肯定的な意見が寄せられた。アメリカと対峙して戦を繰り広げても勝ち目はない。現実的に考えれば、大人しく従って条約を締結する以外の道はなかったのだろう。みなの意見を受けて堀田は、溜詰大名の中心的存在だった井伊直弼とも連携し、幕府として開国の方針をとる方向でまとめていく。

12月11日からは、冒頭で述べたように、下田奉行の井上清直と、目付の岩瀬忠震らが幕府全権としてハリスと交渉をスタート。13日には、朝廷に条約を締結する旨を伝えている。

あとは形式的に、天皇の許可を得れば万事がうまくいく――。そんなふうに幕閣の誰もが安易に考えていた。それだけに、孝明天皇の猛烈な抵抗は完全に予想外の出来事だった。

なるべく責任をとりたくなかった幕府

実のところ、幕府の上層部における話し合いでは、条約の締結について「幕府の専権事項であり、特に勅許を得る必要はないだろう」という意見も多かった。これまでもっぱら幕府が重要な政務を行ってきたのだ。今さら朝廷が出る幕もないと考えられていたのである。

だが、そうはいっても、一国の行く末を左右する大きな判断になることは間違いない。そんなとき、なるべく責任をとりたくないという気持ちが働くものだ。また、ペリー来航時の日米和親条約では、朝廷とも連携をとったうえで、締結に至ったという前例もある。

念のため、朝廷の許可を得ておいたほうがよかろう――。岩瀬忠震らがそう主張して、堀田の上京を支持。ならばと、堀田が勅許を得ようと安政5年2月に上京したところ、孝明天皇から予想外の拒絶を突き付けられることとなった。

孝明天皇は、堀田が上京する少し前の1月17日、関白の九条尚直にこんな表明していた。

「アメリカの思い通りになってしまっては、天下の一大事だ。朕の代にこのようなことになるのは、後代までの恥となる」

頑として条約の勅許をはねつけられ、困ったのは堀田である。楽観視していただけに、冷や汗をかいたことだろう。堀田は、朝廷とのやりとりの中で、関白の前で涙したとさえ言われている。それほど追い詰められた堀田は結局、朝廷の説得に失敗。何の収穫もなく、江戸へ空しく戻っている。