その理由の1つとして、日米和親条約には通商に関する規定がなく、下田と箱館の港を開放し、アメリカの船への補給などを認めたにすぎなかった。天保13(1842)年に発した「薪水給与令」によって、すでに飲料水・燃料の給与を認めていることを踏まえると、実質的な影響は少なかった。

幕府は日米和親条約について、安政2(1855)年8月末、「書状で説明するのは難しい」とし、京都所司代の脇坂安宅が禁裏付武士の都築峰重らとともに上京。関白らと会見して、アメリカだけでなく、ロシアとイギリスとも和親条約を締結したことを報告している。

いくつかの質疑応答はあったが、条約の締結について、関白らは条約に納得。特に問題視する声は上がらなかった。4日後、幕府側は孝明天皇の反応について、関白からこう知らされている。

「ことのほか、叡感にあらされて」

「叡感」とは、天皇や上皇が感心し、ほめることをいう。それだけではない。幕府の対応に感心して「千万ご苦労」と、孝明天皇は交渉の労をねぎらってさえいるのだ。

外国との通商には慎重な考えを持っていた

孝明天皇といえば、ヒステリックに異国を嫌い、一切の妥協をしないという印象が強い。しかし、外国と親交を持つこと自体は、むしろ時代の流れとして受け入れていた。ただ、外国との通商には慎重な考えを持っていたため、日米修好通商条約については、異を唱え続けたのである。

「アメリカの思い通りになってしまっては、天下の一大事だ。朕の代にこのようなことになるのは、後代までの恥となる」

日米和親条約と同様に問題なく許可されるだろう――。老中の堀田正睦が事態を楽観しながら、京に向かおうとしていたころ、孝明天皇は関白の九条尚直に対し、通商条約に断固反対の決意を語っていた(第1回参照)。

これ以来、孝明天皇は一貫して条約反対を訴え続けるが、その思いの丈を初めて語ったとき、そうとうな勇気が必要だったことは、あまり知られていない。孝明天皇はペリー来航時からすでに異国嫌いだったが、表立ってはそれを語らなかった。なぜならば、孝明天皇にとって最も敵に回したくない人物が、開国論者だったからである。

その人物とは、関白の鷹司政通である。