鷹司政通は、内大臣、右大臣、左大臣を経て、文政6(1823)年に関白となった。その華やかな経歴もさることながら、血筋に優れていた。

鷹司政通は寛政元(1789)年、五摂家の一つである鷹司家に生まれている。鷹司家は天皇家と同じく、閑院宮家の血筋にあたる。政通の父、鷹司政煕は約20年にわたり関白を務めて、祖父の鷹司輔平にいたっては閑院宮直仁親王の第4皇子で、やはり関白を務めた。

天皇家と同じ血筋を持ち、関白として朝廷の事実上トップに君臨し続けた鷹司家。鷹司政通の発言力は非常に大きく、孝明天皇にとっては厄介な存在だった。なにしろ、日米修好通商条約の議論が行われた安政5年の時点で、政通は70歳。対する孝明天皇は28歳である。

孝明天皇は大ベテランの政通について「予一言に太閤多言にて申しきりになり候わん」(『孝明天皇紀』)と述べている。現代語訳すれば、次のようになる。

「私が一言いえば、政通はその何倍も物を言う」

2人の関係性が目に浮かぶようだ。

関白を辞しても影響力はますます増大

鷹司政通は安政3(1856)年に関白を辞し、九条尚忠が新たに関白となる。だが、鷹司の影響力は失われるどころか、ますます増大した。「太閤」と呼ばれた鷹司は「内覧」という職権を許されて、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書を先に見ることができた。

現関白の九条尚忠のことを「小児のごとく」軽んじたともいわれている鷹司政通。孝明天皇にとって鷹司政通は、頼もしい存在であると同時に、朝廷の実質的なリーダーになるためには、乗り越えなければならない高い壁でもあった。

孝明天皇の存在感を薄くした鷹司政通は、朝廷を牛耳っただけではなく、ペリー来航以降は、幕府に対しても発言権を持とうとしていた。

ペリーが浦賀に到着したのは、嘉永6(1853)年6月3日。6月15日には、幕府は朝廷に報告しているが、鷹司はペリーが来る前から、黒船が来航することを知っていた。情報元は、徳川斉昭だ。鷹司政通は斉昭の実姉、徳川清子を妻に迎えている。鷹司は開国論者で、斉昭とは考えは異なるものの、そのパイプを最大限にいかして、積極的に情報収集を行っていた。

斉昭からは、黒船の来航を予想しながらもろくな対策が打てていない、幕府の体たらくが随時知らされていた。斉昭からペリーについての報告書が寄せられ、孝明天皇は異国に嫌悪感を示した。

誰よりも政務に通じていて、かつ、情報収集力に長けているとなれば、鷹司の権勢は高まるばかりである。ペリー来航から約20日後、第12代将軍の徳川家慶が40歳で病死すると、鷹司は武家伝奏の三条実万(さんじょう・さねつむ)を呼んで、こんなことを言った(『孝明天皇紀』)。