四日市を重化学工業都市として決定づけたのは、1941年に稼働した第二海軍燃料廠だった。約215万平方メートルという広大な燃料廠は、国内最大級の日産2万5000バレルという石油精製能力を有していた。

それだけに海軍からの期待も高く、敷地内および周辺には空襲に備えるための高射砲座が5基も設置されたほか、約4600人を収容できる鉄筋コンクリート製の防空壕が163カ所もつくられている。

戦前期に重化学工業都市・四日市を牽引した工場群は終戦直前に繰り返し空襲を受けた。そのため、市内の被害は甚大だった。戦災復興はこれらの工場を再生するところから始まるが、旧陸軍製絨本廠四日市製造所や旧第二海軍燃料廠といった軍需工場は民需転換を迫られる。

1956年に新たな玄関口として開設された近鉄四日市駅。百貨店と一体化し、鉄道のほか買い物客の利用も目立つ(筆者撮影)

産業の転換が図られることになると、市内の中心軸は工場が立地する沿岸部から内陸部へと移動していく。それに伴い、近鉄は駅の移設を計画。急カーブが連続していたルートを大幅に変更し、1956年、従来は国鉄四日市駅付近にあった旧四日市駅をそれまでの諏訪駅付近に移し、「近畿日本四日市駅」(現・近鉄四日市)を新設した。現在、市の中心駅としては近鉄四日市駅が圧倒的な存在感を示している。

公害を乗り越えて

一方、国鉄の四日市駅は戦災復興という名目で改築されたが、近鉄四日市駅が移転した1956年頃から駅舎の拡張が議論された。当初は百貨店を併設する駅ビル計画もあったが、国鉄と地元の要望が噛み合わず、最終的にこぢんまりとした駅舎になっている。

また、国鉄は近鉄に対抗するため四日市駅を軸にした鉄道網の再構築に取り組んでいた。紀勢本線が全通するのを控え、政財界が関西本線複線電化促進連盟を1958年に結成。それらの動きと連動して、四日市市と県都・津市を結ぶ短絡線の建設も要望が強まった。この短絡線は1973年に伊勢線(現・伊勢鉄道)として結実した。旅客輸送は近鉄が主力でも、貨物輸送では重要拠点であり続けている。

1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、政府は経済の自立策として石油化学製品の国産化に旗を振った。戦前期から石油精製企業が多く立地していた四日市は、国の政策と高度経済成長という時代の追い風を受けて劇的に活性化していく。

しかし、1960年には東京築地中央卸売市場で「四日市の魚は油臭いから、厳重な検査が必要」と通告されるほど、工場を原因とする水質汚濁が深刻化していた。市民への健康被害も次々と報告されることになり、市は公害防止対策委員会を設置。三重県も1963年に公害対策室を新設した。1967年から始まった四日市公害裁判は、1972年に原告が勝訴。以降、四日市市は厳格な大気・水質汚染対策を講じて、公害の克服に努めている。

現在の四日市は名古屋圏のベッドタウンとしての趣を強くしている。過去には公害の象徴的な存在だった工場群は夜景をウリにした観光コンテンツへと姿を変えるなど、新たな時代を迎えつつある。

著者:小川 裕夫