③ 松下幸之助氏は1977年、山下俊彦氏を3代目社長に任命。松下正治氏を事実上お飾りの会長に棚上げした。24人の先輩を押さえての就任だったため「山下跳び」と呼ばれるほど画期的な人事だった。大学も出ていない仕事師をポスト正治氏に据えたという点も、正治氏には当てつけに思えたようだ。

④ 山下俊彦氏(3代目社長)は、1986年に4代目社長に就任した谷井昭雄氏に、松下正治氏退任を引き継ぎ事項とした。

⑤ 1989年4月、松下幸之助氏が94歳で逝去。会長にとどまっていた松下正治氏が78歳にして最高権力を手にし、発言力を強める。正治氏は谷井社長を介さず、1990年11月、松下電器はアメリカ映画会社MCA(現・ユニバーサル・スタジオ)を61億3000万ドル(約7800億円)で買収。1989年11月にアメリカ映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメント(1991年8月、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントに社名変更)を買収したソニーに対抗心を燃やした。しかし、金融収支が悪化し1991年3月期に赤字転落。その後もハードとソフトの融合でまったく成果が出せなかったため、1995年4月にカナダ・シーグラムに売却する。

山下氏による世襲批判発言が波紋

⑥ 1993年2月、谷井社長が子会社ナショナルリースの巨額損失事件や冷蔵庫の欠陥問題などを巡り、正治氏から責任を問われ辞任。正治氏はこれを好機として逆襲に転じ、松下家および正治氏を温存すると見た森下洋一氏を5代目社長に据える。その背景には、正幸氏を6代目社長にしようとする強い願望があった。正幸氏は洗濯機事業部を経て、1986年、40歳で取締役に就任。その後、常務、専務に。

1996年には副社長にと、とんとん拍子で昇進。「正幸社長」が現実味を帯びてきた。マスコミからも、ことあるごとに世襲の可能性が問われた。そのような中に会って、1997年、当時相談役になっていた山下俊彦氏が大阪市内で開かれた関西日蘭協会のパーティー会場で記者団と懇談していたとき、「創業者の孫というだけで副社長になるのはおかしい」と批判。この一言が記事になりたちまち大きな波紋を呼ぶ。社内でも世襲否定派が台頭した。

⑦ 世襲批判の機運が盛り上がる中、デベロッパーであり松下家の資産管理会社でもあった松下興産の巨額負債が発覚。和歌山のリゾート施設・マリーナシティなどへの過剰な投資により、最終的に7700億円もの有利子負債を抱えてしまう。同社は松下幸之助氏が1983年まで社長を務め、それ以降は、松下正治氏の娘婿である関根恒雄氏が後任を託されていた。そのこともあり、松下電器が再建することになった。2000年、この問題の責任を取り、正治氏は会長から名誉会長に退き、2001年に関根氏も更迭。2005年に松下興産は清算される。

⑧ 松下家の松下電器への影響力が極めて弱くなり、2000年に中村邦夫氏が6代目社長に就任したことで、「山下発言」以来、社内外で注目され続けた世襲問題は、事実上終結した。松下正幸氏は副会長に棚上げされ、社長になることはなかった。中村氏は「破壊と創造」というスローガンの下、「創業者の経営理念以外はすべて変えていい」と宣言し、不採算拠点の統廃合、事業部制の廃止、主要関連会社の子会社化、人員削減にも手をつけた。