稲毛には、清朝最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と、昭和天皇の遠戚にあたる嵯峨浩も結婚後に新居を構えている。フランス人画家で、風刺画でも名を馳せたジョルジュ・ビゴーも邸宅を構えた一人だ。期間は判然としないが、おそらく1882年に来日して1899年に帰国するまでの大半は稲毛に邸宅を構えていたとされる。

居住することはなかったが、島崎藤村・森鴎外・田山花袋・林芙美子といった文人墨客も稲毛海岸の旅館に頻繁に逗留。その様子を作品に描き、庶民に稲毛海岸と別荘地の名を広めた。富裕層の別邸や文人墨客が逗留した旅館などが人気に火を点け、京成は1922年に海水浴客の需要を見込んで千葉海岸(現・西登戸)駅も開業している。

稲毛を海浜リゾートに押し上げた神谷は、残念なことに稲毛海岸のにぎわいを目にすることなく駅開業から1カ月後に没している。

航空に注目した軍が着目

大正末期から昭和初期にかけて、千葉は軍都としての色彩を強めていった。その遠因になったのが、1923年に起きた関東大震災だった。千葉市も関東大震災による被害が出たものの、東京・横浜に比べると被害は小さく、政府や軍部はリスクヘッジの観点から軍事施設を千葉へと分散させた。

陸軍はリスクヘッジ以外の観点でも千葉に着目していた。先述したように稲毛海岸は海浜リゾートとして人気を高めていたが、その一方で民間航空の発祥地にもなっていたからだ。

日本鉄道(現在のJR東北本線や常磐線などを開業した私鉄)の社長を務めた奈良原繁の息子・三次は海軍に入隊し、航空機の研究に没頭。退役後の1912年、奈良原は稲毛海岸に民間飛行場を建設。国産飛行機の製作や後進パイロットの育成に力を注いでいた。

当時の大日本帝国に空軍はなく、陸軍と海軍が競うように空軍力を保持していた。陸軍は制空力を高めるべく、1927年に所沢から千葉へ気球連隊を移転。さらに1938年には千葉陸軍防空学校を開設する。その間の1936年に千葉陸軍戦車学校も開校しているが、陸軍が千葉市に空軍施設を集めたのは、少なからず奈良原の影響があった。

こうして千葉駅の周辺は軍事施設で埋め尽くされていき、主要産業も農業・漁業から工業へとシフトしていく。後述するが、これは奇しくも戦後の高度経済成長期に連動することになる。

千葉市の発展に伴って、鉄道も整備されていった。かねてより総武本線と京成は千葉―東京間で競合関係にあった。実際は1921年に全線電化で開業した京成がスピード面でも運行頻度でも勝り、蒸気機関車の総武本線は相手にならなかった。