戦後、5次にわたって内閣を組閣した吉田茂元首相は大磯に邸宅を構えていた。1963年に政界を引退してからも絶大な政治力を有していたため、邸宅には国内のみならず海外からも要人が訪れた。

大磯と吉田の関係は深い。正確な時期は不明だが、吉田の養父・吉田健三が大磯に邸宅を構えたのは東海道本線の大磯駅が開業した1887年頃だったという。吉田健三が駅を意識して邸宅を構えたかどうかまではわからない。しかし、駅の開業が大磯という街を大きく変えたことは間違いない。

「初代軍医総監」が広めた海水浴

現在、大磯は夏季に多くの人でにぎわう海浜リゾートとして知られる。その端緒を切り開いたのは、幕末の西洋医学者である松本順(良順)だった。明治新政府の発足後は幕臣だったことを理由に出仕を拒否した。しかし、陸軍の大物だった山県有朋に口説かれて大日本帝国陸軍の初代軍医総監に就任する。

1885年に軍医を退職した松本は早稲田の邸宅を犬養毅に譲り、多くの政治家たちが別邸を構えていた小田原へ引っ越す予定だった。その理由は「潮湯治」に適した海岸があったからだ。潮湯治とは現在でいうところの海水浴を指すが、レジャー的な要素は薄い。むしろ、心身の鍛錬や療養を目的にしていた。

松本は小田原の海岸に海水浴場を開設しようと働きかけたが、地元住民から理解を得られなかった。帰路、松本は大磯に立ち寄り、ここが海水浴に適していることに気づいた。そして、海水浴場の開設に奔走する。当時は海水浴という文化は広まっていない。肝心の足となる東海道本線は、横浜(現・桜木町)駅までしか開業していなかった。それでも松本は大磯に転居し、海水浴の振興と周知に努めた。

松本は私財を投じて東京から歌舞伎役者を呼び寄せ、海水浴を体験してもらった。そして、役者たちに口コミで大磯と海水浴を宣伝させた。さらに、歌舞伎作家として人気を博していた河竹黙阿弥に大磯と海水浴をストーリーに混ぜ込んだ演目「名大磯湯場対面」を書かせる。これが東京・新富座で上演されたことで、東京でも大磯の知名度が一気に向上した。