中国では、黄河を発祥の地とする文明が、陸上ルートでどんどんと拡大していった。夏・殷の文明、周をへて春秋・戦国時代へと至るにつれ、経済は成長していった。前221年に中国を統一した秦は、度量衡や文字を統一した。秦政府は、積極的に経済に介入し、経済成長に努めたばかりか、単一市場を形成していった。

このようなシステムこそ、中国経済成長の原動力であり、漢人の王朝であれ、遊牧民の王朝であれ、歴代の中国政府が続けてきた制度なのである。中国の制度は中央集権化し、皇帝の力が強大になった。唐代以降、中国では陸上貿易のみならず海上貿易が成長し、おそらく清代の乾隆帝(在位 1735〜95年)の時代に至るまで、中国は世界でもっとも豊かな地域であった。

ヨーロッパの反撃

中国と比較したなら、長年にわたり、ヨーロッパは貧しい地域であった。高緯度に位置しており、植生の点で貧しかったからである。

しかも、7世紀以降、ヨーロッパはイスラーム勢力によって取り囲まれており、外部から遮断された世界であった。中世のヨーロッパでは、香辛料の輸入によりイタリアが繁栄したとよくいわれるが、香辛料は東南アジアのモルッカ諸島からエジプトのアレクサンドリアまでアジア人の船で輸送され、イタリア商人は、アレクサンドリアで陸揚げされた香辛料をヨーロッパ内部で流通させたにすぎない。それに対しポルトガルは、喜望峰を通って直接モルッカ諸島に赴き、香辛料を輸入したばかりか、日本にまでやってきた。

海外に進出するヨーロッパとアジアにとどまる中国という図式はその後も長く続き、この2地域の経済力が逆転する大きな要因となった。ヨーロッパ人は、インド洋、東南アジアの海、そして東アジアの海で元来アジア人がもっていた海上での流通ルートを自分たちのものにしていった。

人類がホモ・モビリタスであるとするなら、大航海時代以降さまざまな地域に移動したヨーロッパ人こそ、近世の世界史における典型的なホモ・モビリタスであり、彼らがやがて世界中に植民地を有するようになることは、十分に想像できることであった。