第2次世界大戦中、陸路でアルプスを越えた船がありました。これはイタリアで開発されたM.A.S.魚雷艇で、同盟国の求めに応じてホームグラウンドの地中海を飛び出し、黒海、さらにはフィンランドのラドガ湖まで行き、戦っています。

イタリアの魚雷艇はプレジャーボートから発展

 紀元前218年、カルタゴのハンニバル将軍は象を連れてアルプスを越え、ローマ帝国に攻め入りました。それから2000年以上経った20世紀の中頃、それとは逆ルートで山を越えた船があります。それはさほど小さくもない、イタリアの魚雷艇でした。

 第1次世界大戦で登場した潜水艇や潜水艦に対して、イタリア海軍は魚雷や水雷攻撃を行う駆潜艇として小型艇を採用します。これは民間の大型高速プレジャーボートの製作経験を活かしたもので、その名称「Motobarca Armata SVAN(SVAN:ヴェネチア自動船舶会社製武装モーターボート)」を略して「M.A.S.艇」と呼ばれました。

 魚雷を搭載したM.A.S.艇は、敵艦船に対して素早い肉迫攻撃を加えると、すぐさま駿脚を活かして離脱する、新たな戦法を編み出します。結果、わずか排水量13トンほどの小型艇が、千数百倍の弩級戦艦を沈める殊勲まで飾りました。

 こうして第1世界大戦で実力を見せたM.A.S.艇は大戦後も進化し続け、それから約20年後に起きた第2次世界大戦でも、哨戒任務やヒットエンドラン攻撃などで数々の戦果を挙げたのです。

イタリア海軍のロシア派遣は陸路でアルプス超え

 1941(昭和16)年6月にドイツがソ連に侵攻を開始し、いわゆる独ソ戦が始まると、イタリアもドイツ支援を表明しました。そしてドイツ海軍は黒海における船舶輸送の安全を確保するため、イタリア海軍に対して人員と機材の派遣を要請します。

 それはあくまでも海上交通路の安全確保が目的のため、大型艦船ではなく小型船舶でした。そこで白羽の矢が立ったのが、前出のM.A.S.艇です。排水量が小さく輸送しやすいため、1942(昭和17)年春には最新の500型10隻の派遣が決まります。

 ただし、地中海からエーゲ海を経て黒海に入るルートは、当時中立国のトルコを経由しなくてはならず政治的に困難で、しかも動きがソ連に筒抜けになる恐れがあったので、機材を一部陸路で運ぶ輸送が検討されました。

 しかし、いくら小型とはいえ、排水量30トンの船を黒海まで輸送する行程は並大抵ではありません。行軍は3度に分けて行われ、操舵室やマストを分解した船体を大型トレーラーに搭載した「大名行列」のような車列が、アルプスのつづら折りの山道と標高1375mの峠をゆっくり抜け、途中からドナウ河の水路を使って苦労の末、黒海までたどり着きました。

 現地でM.A.S.部隊は、クリミア半島南端にあるヤルタなどを基地として黒海沿岸の哨戒任務に就き、重巡洋艦「モロトフ」大破や輸送艦2隻、哨戒艇1隻撃沈などの戦果を挙げ、翌1943(昭和18)年5月に残った艇をドイツ海軍に譲渡して帰国しています。

2度目の魚雷艇陸送と極北の戦線での戦果

 一方、1942(昭和17)年春には、黒海派遣とは別に北方のフィンランドからも、ラドガ湖での警備とソ連輸送船の排除を目的とした派遣要請を受けます。イタリア海軍は再びM.A.S.艇4隻を送り出すため、今度はドイツ縦断の旅に出ます。

 まずはバルト海に面したドイツの港町、シュテッティンを目指して、陸路でアルプスを越えることになりました。車両に積まれてラ・スペツィア軍港を出ると、イタリア北端のブレンネロ(ブレンナー)峠を越えて内陸のインスブルックやミュンヘン経由でシュテッティンに到着。そこで輸送船に載せ替えられ、ヘルシンキまで海上を運ばれ、さらに陸揚げののち、再び陸路で最終目的地であるラドガ湖畔のソルタンラフティに到達しました。移動期間は26日間、総距離で3105kmにおよぶ大輸送です。

 遠路運ばれてきた4隻のM.A.S.艇部隊は、極北の戦線でも59回の出撃を行い、「ビラ」級砲艦1隻と輸送船1隻撃沈の戦果を挙げて人員損失ゼロで翌1943(昭和18)年春に帰還。残された4隻はフィンランド海軍に売却され、山を越えた海軍は任務を遂げたのでした。