イタリア初となる全金属製の低翼単葉戦闘機として開発され、第2次世界大戦前半には空軍の主力機でもあったフィアットG.50戦闘機。本国では目立った戦果を挙げることはなかったもの、異国の空では多数のエースパイロットを輩出しました。

イタリア初の近代的な戦闘機を目指して誕生

 第2次世界大戦前のイタリアでは、複葉戦闘機が進化を続け、それなりに優秀な機体も誕生していたため、他国と比べて単葉戦闘機の登場が遅れていました。それがイタリア空軍に危機感を抱かせることになりました。空軍は1936(昭和11)年に軍用機の近代化を主眼に置いた「R」計画を発表、国内の各航空機メーカーに新型戦闘機の試作を依頼します。

 とはいえ、その前年の1935(昭和10)年4月から開発が始まっていた単葉機もありました。それが、ジュゼッペ・ガブリエッリ技師と設計チームによるフィアット社のG.50です。イタリア初となる全金属製の低翼単葉機である同機に、油圧式の引き込み脚や、全周視界を確保できる密閉式ガラス風防なども盛り込み、当時最新の空冷戦闘機を生み出そうとしていました。

 進歩的な戦闘機を目指して造られたG.50は、1937(昭和12)年2月にトリノで初飛行に成功。フィアット製A74 RC38型14気筒空冷エンジン(840馬力)を搭載して、最高速度472km/h、高度6000mまで6分40秒で上昇するなど、当時のイタリア製戦闘機としては優れた性能を見せつけたのです。

登場が早すぎた? 素性は良かったG.50戦闘機

 しかしフィアットG.50は、高速飛行から制御不能なスピンを起こしやすい癖があり、軽快な複葉戦闘機の格闘戦性能と比較して、操縦性はあまりよくなく、武装も機首に装備した12.7mm機銃2挺のみと貧弱でした。しかし、イタリア空軍は近代化を急いでいたことからG.50の制式採用を決定、「フレッチア(矢)」の愛称でフィアットに生産を命令します。

 1938(昭和13)年には、当時、激しさを増していたスペイン市民戦争(スペイン内戦)にも11機が参加し、実戦デビューしています。しかし最新の密閉式風防は、前線では不評を買います。これは当時の風防ガラスの透明度や製造法が大きく関係していました。どうしてもフレームを多くしなければならず、これが視界不良と索敵の妨げになるというものでした。同様の主張は、後に配備されるマッキM.C200戦闘機でも起きています。

 結局G.50型は、時代を逆行するかのごとく、密閉式風防を廃止して、操縦席後部が胴体とつながった開放式に改修されることになったのです。

 1939(昭和14)年9月、ドイツが隣国ポーランドに攻め入り、第2次世界大戦が始まります。翌1940(昭和15)年6月には、イタリアもドイツ側に立って参戦、フィアットG.50戦闘機は、空軍の主力機であったフィアットCR-42複葉戦闘機と共にイタリア戦闘機隊の中心戦力として北アフリカやギリシャ、地中海上空の戦いや英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)などに参加します。

 しかし当時、イタリアの植民地であった北アフリカのリビアに配備された機体には防塵フィルターが未装備だったためエンジン故障が多発、後から配備されたMC.200やMC.202といったマッキ製戦闘機に比べて大きな戦果を挙げる事はありませんでした。結果、G.50型は戦闘爆撃機に転用されながら、徐々に第一線を退いていきます。

駄作機にならずに済んだ北欧での戦果

 イタリア空軍ではパッとしないまま前線から引き揚げられていったフィアットG.50戦闘機でしたが、意外な所で活躍を見せます。それは北欧の国フィンランドでした。

 1939(昭和14)年暮れ、フィンランドはソ連と戦端を開く可能性から、自国空軍が装備するオランダ製フォッカーD-21戦闘機の後継として、同じ空冷機であるG50の発注をイタリアに対して行います。同機は最終的に、33機がフィンランド空軍第26飛行隊に配属されてソ連機相手に極北の空で戦います。

 当初は寒冷地でのエンジン不調が続いたものの、フィンランド人達は巧みにこのイタリア機を使いこなすようになり、1941(昭和16)年から1944(昭和19)年まで続いた第2次ソ・フィン戦争、いわゆる「継続戦争」では、最初の年だけで52機を撃墜、最終的にG.50型を用いて敵機99機撃墜の戦果を挙げています。

 これに対し、フィンランド軍のG.50の損害はわずかに3機という驚異の33:1の撃墜対被撃墜比率(キルレシオ)を見たのです。

 結果、フィンランドのG.50戦闘機は、エンジンの予備パーツがなくなるまで使用され、オイヴァ・トゥミネンの23機を筆頭にオイリ・プハッカの13機、ニルス・トロンティの6機など“イタリア機の名手”を複数、輩出しました。

 これは頑丈な機体設計や視界の良い操縦席の改修も上手く作用したものと思われますが、フィンランド人戦闘機パイロットとしての資質によるものが一番の理由でしょう。ちなみに、イタリア語で戦闘機を表す「Caccia」の本来の意味は「狩猟」です。となると、さしずめG.50のパイロットは「猟師」といったところになるのかもしれません。

 ということは、その「猟師」に操られたG.50は“猟犬”にあたるのかも。ラテン産の猟犬は一時の栄光を得て、北の空を駆け抜けた、といえるではないでしょうか。