1923年に発効したワシントン海軍軍縮条約は、主力艦と航空母艦の保有を制限しましたが、1万トン以下の航空母艦には制限がありませんでした。1930年のロンドン海軍軍縮条約で制限されるのですが、日本は抜け道を用意していました。

小型空母「龍驤」が1万トンを超えたワケ

 ワシントン条約海軍軍縮は、日本が戦艦および巡洋戦艦からなる主力艦といわれるものや航空母艦(以下空母)で、アメリカならびにイギリスと比べて6割の規模を保有するという内容で、1923(大正12)年に発効しました。この条約は、日本海軍に大きな影響を及ぼすことになりますが、一方で日本は、したたかさも見せながら軍備を増強していきます。

 この条約で日本が獲得した空母の保有枠は排水量で計8万1000トン。そのうち主力艦を改装する形で建造された「赤城」「加賀」の2隻の大型空母で5万3800トンを使用したため、空母の新造枠としては残り2万7200トン分でした。

 当初、旧日本海軍は、この残りの保有枠をフルに使って2万7000トン級の大型空母を新造するつもりでした。加えて、条約の制限外となる1万トン以下の小型空母を3隻新造し、すでに保有している空母「鳳翔」と合わせ小型空母4隻をそろえることで、大型空母3隻を補佐する計画を立てていたのです。

 こうして、日本は当初建造する予定であった水上機母艦を、小型空母に変更。同艦(のちの空母「龍驤」)は、1929(昭和4)年に起工されますが、建造中にロンドン海軍軍縮条約(以下ロンドン条約)が成立し、1万トン以下の空母も保有枠にカウントされることになりました。

 このロンドン条約の成立で、建造中の小型空母をあえて排水量1万トン以下に収める必要がなくなったことから、建造中に1段格納庫を2段と改め、搭載機を24機から36機に増やすよう設計を改めます。こうして建造された小型空母は「龍驤」と命名され、1933(昭和8)年5月に竣工します。なお「龍驤」は、前述した設計変更で、排水量が1万600トンに増えたものの、公称は7100トンで通しました。

ロンドン条約で日本だけが制限

 ロンドン条約で制限された排水量1万トン以下の空母ですが、実は日本だけが割りを喰っています。当時のアメリカやイギリスと比較すると、その不利な状況が見えてきます。

 当時アメリカで最少の空母は1万1500トンの「ラングレー」でしたが、試作艦的な扱いで、最初から保有枠にカウントされていませんでした。なお、「ラングレー」は米英のみで結んだ第二次ロンドン条約で保有枠に含まれたのを受け、水上機母艦に改造され、転籍しています。

 イギリス最少の空母は、1万850トンの「ハーミズ」で、元から空母保有枠に含まれていました。なお同国にはそれよりも小さな空母として常備排水量9750トンの「ヴィンディクティヴ」がありましたが、こちらはワシントン条約成立後の1924(大正13)年に重巡に改装されたため、ロンドン条約の保有枠には含まれませんでした。

 結果、日本だけが7470トンの「鳳翔」と、公称7100トンの「龍驤」を保有枠にカウントされたのです。これにより、日本は蒼龍型空母を建造するさいに、「鳳翔」を廃棄する前提で空母保有枠を空けることになります。

 このように3か国を比較してみると、日本だけ不利な条約内容のように思えますが、実は、ロンドン条約の交渉で自ら「1万トン以下の航空母艦の制限」を提案したのです。一体なぜなのでしょうか。

空母予備艦という抜け道

 当時、日本は敵国空母による、本土空襲を恐れていました。各国の制限外空母を出現させたくなかったがために、保有制限を強めることを主張したのです。

 また、日本が排水量1万トン以下の空母制限を提案した大きな理由のひとつには、空母予備艦の構想もありました。ロンドン条約では、基準排水量1万トン、速力20ノット(約37km/h)以下の特務艦艇であれば保有制限外、という規定が成立しています。この制限外艦艇を有事に空母へ改装すれば、空母戦力を大幅に増強できると考えていたからでした。

 実際に、潜水母艦「大鯨」、高速給油艦「高崎」「剣崎」が空母予備艦として計画され、後に空母「龍鳳」「祥鳳」「瑞鳳」へ姿を変えています。また、水上機母艦「千歳」「千代田」も「必要に応じ航空母艦に改造し得ること」という要求がなされ、のちに空母へ改装されています。

 もし、ロンドン条約で1万トン以下の空母が制限されていなかったら、アメリカは太平洋戦争開戦前にインディペンデンス級のような、小型空母を多数保有していたかもしれません。そう考えると、日本の空母制限に関する提案は、一定の外交的成果を上げたといえるでしょう。

客船も空母に改造することも考えていた

 さらに、日本は優秀な客船を戦時に空母へと改装することも、折り込み済みでした。1929(昭和4)年に就航した、大型客船の浅間丸型3隻を空母に改装する予定だったのです。浅間丸型は、戦時には排水量1万6800トン、搭載機数38機、速力20ノット(約37km/h)の空母になるはずでした。

 結局、浅間丸型は空母に改装されることはありませんでしたが、日本は、その後も空母改装に適した優秀客船に助成金を出し続け、橿原丸型は隼鷹型空母へ、新田丸型は大鷹型空母へ、あるぜんちな丸型は海鷹型空母へとそれぞれ改装されることになります。

 優秀客船の空母改装は、イギリスなど各国でも研究されていたものの、計画的かつ大規模に戦力化したのは日本だけでした。

 なお、イタリアでは客船「ローマ」が空母「アクィラ」に改造されたなど、他国でも空母改装事例が全くないわけではありませんでしたが、設計段階から空母化を織り込んでいたわけではありませんでした。

 もし、空母予備艦や商船改装空母が存在しなかったなら、日本はミッドウェー海戦で敗北した後で、翔鶴型2隻と「鳳翔」「龍驤」しか空母がなくなっていたでしょう。そうしたことを考えてみると、日本の空母整備は効果的だったともいえるのです。