日本復帰前の沖縄は本土とは異なる体制であり、それは公安組織も同様でした。そうしたなか、復帰直前のわずかな期間に存在した法執行機関が、琉球海上保安庁です。本土復帰までの8か月間だけ存在した幻の組織は、なにをしていたのでしょうか。

警察が海上保安業務も担っていた復帰前の沖縄

 日本列島周辺に広がる海域での安全確保や人命救助、情報収集などをおもな任務とする海上保安庁は、全国を11の管区(エリア)に分け、各々に人員や船、航空機などを配置していますが、そのなかで最後に発足したのが沖縄県の周辺海域を担当する第十一管区海上保安本部です。

 第十一管区海上保安本部が生まれたのは、いまから50年前の1972(昭和47)年5月15日のこと。沖縄の日本復帰に伴い新設されたもので、それより前、沖縄県がいまだアメリカの施政権下、事実上の占領下にあった時代は、海上保安庁に相当するような公安組織はありませんでした。ただ、復帰直前のわずか半年間だけ「琉球海上保安庁」なる組織が急きょ発足し、第十一管区海上保安本部の開設とともに姿を消しています。

 約半年間だけ沖縄に存在した、琉球海上保安庁なる組織について振り返ってみます。

 第2次世界大戦末期、地上戦が繰り広げられた沖縄県は戦後、アメリカ軍の占領下に置かれ、翌1946(昭和21)年以降、アメリカ軍政のもと、独自の民政府が設置されるようになりました。

 そのようななか、治安維持を受け持つ法執行機関として設けられた琉球警察が、海上における警備救難業務も担うこととされたため、アメリカ軍から供与された小型の警備艇、そして1960年代以降、順次配備されたより大型の救難艇についても、海上保安庁の巡視船艇に相当するサイズながら琉球警察が運用したのです。

 そのため、那覇市に置かれた琉球警察本部(のちの沖縄県警察本部)には刑事課や交通課などと並んで海上保安課や出入国管理課が設けられており、これらの部署が海上保安庁や入国管理局(入管)などに準ずる業務を担当していました。

本土復帰を見据えた業務のスムーズな移行が目的

 しかし、アメリカ軍統治下の沖縄では、灯台などを設置・管理する航路標識業務については琉球警察の所管ではなく、琉球政府の工務交通局(のち通商産業局)が担当していました。水路業務に関しては琉球政府内に担当部署がなかったことから、日本政府の海上保安庁が航空磁気測量を行うことでカバーしていました。

 また、アメリカ政府の管理下にあった一部の航路標識についてはアメリカ沿岸警備隊が担当しており、そのため那覇軍港には同沿岸警備隊が常駐していたそうです。

 本土の海上保安庁が、警備救難業務だけでなく、航路標識業務や水路測量業務、そして海洋情報の収集管理と提供まで一手に担っていたのと比べると、あまりにも差があったことから、1969(昭和44)年11月の日米共同声明によって1972(昭和47)年に沖縄の本土復帰が決まると、復帰後の事務移管をスムーズに行うための組織が要求されるようになりました。

 その結果、本土の海上保安庁と同じような業務を担うための専門機関として新設されたのが「琉球海上保安庁」でした。

 1970(昭和45)年10月には、琉球海上保安庁設立のために、本土の海上保安庁職員2名が沖縄に派遣されています。そして、翌1971(昭和46)年9月に琉球海上保安庁が発足すると、海上保安庁職員は海上保安指導官として、琉球海上保安庁職員46名とともに第十一管区を開設するための準備を始めます。

 他方で、水路測量業務は前出のように琉球政府内に担当部署がなく実施したことがなかったため、1972(昭和47)年1月に海上保安庁水路部より職員1名が派遣され、琉球海上保安庁の協力のもと、調査と水路業務の普及活動をスタートさせました。

第十一管区海上保安本部の発足とともに消滅

 また、琉球政府は離島における急患輸送業務を実施するため、同年2月に厚生局(当時)の管轄下に石垣医療航空事務所を開設し、翌3月には「ヒューズ型ヘリコプター」の名称でヒューズ500を2機配備しましたが、この支援にも海上保安庁職員2名が技術援助という形で現地へ派遣されています。なお、この石垣医療航空事務所がのちに海上保安庁石垣航空基地となっています。

 このように、沖縄の周辺海域における海上保安業務を一手に担うための組織として琉球海上保安庁は活動するとともに、新たに第十一管区海上保安本部を立ち上げるための施設や用地の確保、物品調達などにも尽力したのです。

 他方で、東京にある海上保安庁の本庁内にも1972(昭和47)年2月1日付で第十一管区海上保安本部設置準備室が設置。こうして沖縄の本土復帰を迎えるための諸準備が整ったことで、復帰当日を迎えました。

 1972(昭和47)年5月15日午前零時、沖縄は本土に復帰、新生沖縄県が誕生します。那覇港では汽笛が鳴り響くなか、停泊中の救難艇などでは琉球船舶旗が降ろされ、新たに日本国旗と海上保安庁旗が掲げられました。

 また同日の朝8時30分には、本部を始めとして各事務所においても日本国旗と海上保安庁旗が掲揚され、第十一管区海上保安本部が誕生します。こうして1971(昭和46)年9月に誕生した琉球海上保安庁は、わずか8か月間で姿を消したのです。

沖縄周辺海域「波高し」

 第十一管区海上保安本部は、開設当初こそ人員約300名、船艇2隻、航空機2機ときわめて小所帯であったものの、着々と組織の拡充が図られていき、現在では定員約1700人、船艇45隻、航空機15機までになっています。

 2021年度時点の海上保安庁定員は約1万4400人、船艇約440隻、航空機約80機であることから、単純計算の場合、第十一管区は人員数において全体の11.8%、船艇は10%、航空機では18.75%の割合を占めることになります。その数は11ある管区海上保安本部のなかで人員、装備ともに最大の規模を誇るほどです。

 これはいうまでもなく、その海域が広大であることと、中国や台湾が管理する海域に隣接する日本最西端のエリアを担当していること、そしてそのなかには中国や台湾が領有権を主張する尖閣諸島が含まれているからにほかなりません。

 今後も、第十一管区海上保安本部の役割は増えることはあっても減ることはないでしょう。振り返ってみると、琉球海上保安庁とは、いうなれば本土の海上保安庁を設置するための橋渡し的組織であり、わずか半年あまりしか存在しなかったものの、その意義は大きかったといえるでしょう。