旧日本海軍の戦艦「陸奥」が1920年の今日、進水しました。長門型戦艦の2番艦として建造されましたが、一時は廃艦の危機に瀕します。大きさやスペックから「世界のビッグ7」に数えられましたが、最期はあっけないものでした。

何としても「完成艦」に

 1920(大正9)年の5月31日は、旧日本海軍の戦艦「陸奥」が進水した日です。「陸奥」は長門型戦艦の2番艦で、巨大な船体や主砲などから当時「世界最大最強」を誇りました。また姉妹艦の「長門」や、アメリカの「メリーランド」、イギリスの「ネルソン」などとともに「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」に数えられ、旧日本海軍の象徴でもありました。

 竣工は約1年半後の1921(大正10)年10月ですが、ここで一悶着起きます。翌11月に発効されたワシントン海軍軍縮条約です。アメリカとイギリスは「陸奥」を、未完成の艦と指摘したのです。対外的な竣工こそ前月でしたが、実は艤装工事は完了しておらず、艦の完成度は8割ほどだったともいわれています。しかし日本側は譲らず完成艦と主張。アメリカとイギリスにも新造艦の建設を認めることで、「陸奥」の保有も認めさせたのです。

「陸奥」は全長220mあまり、基準排水量3万3000トンあまり、41cm連装主砲4基8門を搭載しながら、最大速力26.7ノット(約48km/h)と高速を発揮しました。戦間期である1920年代にはお召艦になったほか、艦首の形状変更が行われています。

 さらに1934(昭和9)年9月から2年間、「陸奥」は大改装を受けます。水中防御力を強化すべく、とりわけ弾薬庫付近は鋼板が3層とされます。また砲戦に備え、機関室やボイラー室の上部は命中弾に耐えられるよう、甲板が厚くされました。

 ボイラーの換装や推進抵抗の軽減に寄与する艦尾の延長により、速力はやや低下したものの航続距離は約5800km(16ノット航行時)延び、また高角砲の口径拡大など対空火力も強化されました。

 そのような「陸奥」の初陣は、1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃でした。ただ、この際の主力は空母機動部隊であり、「陸奥」は戦艦部隊として小笠原諸島近海まで航行するにとどまります。

謎の爆沈へ…

 翌1942(昭和17)年6月にはミッドウェー海戦に参加。しかし後方支援に従事するのみでアメリカ軍との交戦はなく、戦果を挙げられずに帰投しています。なお、この海戦では主力空母を4隻も失う大敗を喫しますが、その際「陸奥」は救助された空母「赤城」の乗員を生還させています。

 アメリカ側が徐々に制海権を握り始めるなか、「陸奥」は巡洋艦や駆逐艦などを率いて南方へ進出します。しかし海戦の主体は航空機を用いた空襲に移りつつあり、加えて戦艦よりも俊敏な駆逐艦隊との作戦行動においては遅れをとり、ここでも戦果らしい戦果は挙げられませんでした。燃料も不足しがちになり、「陸奥」は翌1943(昭和18)年1月、約1か月をかけて本土へ帰還します。

 出撃する機会もなく、「陸奥」は呉軍港の南、現在の山口県岩国市にある柱島の泊地に留め置かれていました。そのようななか、6月8日正午過ぎ、「陸奥」の3番砲塔付近から煙が上がったかと思うと突如にして爆発。船体は真っ二つに裂け、あっという間に転覆し沈没してしまいました。

 付近にいた戦艦「扶桑」は「陸奥」の爆沈を緊急打電すると、救助を開始。同時に敵潜水艦による雷撃が疑われ、同じ泊地にいた重巡洋艦「最上」が対潜警戒を開始します。約1500人いた乗員のうち8割が死亡する大惨事でしたが、結局、敵による攻撃は認められませんでした。

「陸奥の爆沈」は極秘とされ、国民に知らされなかったばかりか、特に事故を目撃した「扶桑」の乗員に対しては箝口令が敷かれました。爆発の原因については今日に至るまで解明されておらず、主砲弾の自然発火説や乗員の放火説などが語られています。ただ旧海軍では過去にも、戦艦「三笠」や巡洋戦艦「筑波」などを火薬庫の爆発事故によって喪失しており、「陸奥」でも同様のことが起きたのではないかともされています。

 いずれにせよ真相は不明であり、しかし思い起こせば無理を通してまで完成させ、改装をも加えた巨艦が本格的に交戦することなく沈没してしまったことは事実でした。