1932年に就役した高雄型は、日本最後の重巡洋艦です。本型の後に造られたのは全て軽巡洋艦でした。ただ、旧日本海軍は本型を極めて重視していたようで、節々にその運用思想を感じ取れます。どのような巡洋艦だったのか見てみます。

書類上、最後の日本製重巡となった高雄型

 いまから90年前の1932(昭和7)年5月31日、旧日本海軍の高雄型重巡洋艦(一等巡洋艦)の1番艦「高雄」が就役しました。ちなみに2番艦「愛宕」は「高雄」より2か月早い3月30日に、3番艦「摩耶」と4番艦「鳥海」は「高雄」就役の1か月後、6月30日に同日付けで就役しています。

 つまり、1932(昭和7)年は高雄型4隻がそろって就役した年といえるでしょう。なお、高雄型の次に建造された最上型や利根型は、書類の上では軽巡洋艦(二等巡洋艦)として計画され、戦没後も重巡洋艦に分類されることなく終わっているため、高雄型、とりわけ3番艦「摩耶」と4番艦「鳥海」は日本で竣工した最後の重巡洋艦とも言われています。

 ある意味、旧日本海軍の重巡洋艦の集大成ともいえる高雄型、どのような軍艦だったのか改めて振り返ります。

 高雄型重巡洋艦のひとつ前のクラスというと、妙高型重巡洋艦になります。このクラスは、1928(昭和3)年から翌1929(昭和4)年にかけて「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」の4隻が竣工していますが、他国の重巡洋艦が主砲8門なのに対して、2門多い10門を搭載し、速力も、当時世界最速の35.5ノット(約65.7km/h)を発揮、さらに世界最大の61cm魚雷を12門装備した重雷装も有しており、それらの特徴から「世界最強の巡洋艦隊」と言われていました。

 その妙高型を改良したのが高雄型です。1番艦の「高雄」と2番艦の「愛宕」は、中止された八八艦隊計画で建造予定だった巡洋戦艦の名前を引き継いだことから、旧日本海軍の期待の大きさがうかがえます。

 なお、妙高型は「重巡に魚雷は不要」の信念を持つ平賀大佐の設計でしたが、高雄型では、妙高型に魚雷を装備する改設計を行った藤本大佐が設計主任となりました。

当初は妙高型に分類

 当初、高雄型は妙高型の5〜8番艦として建造される予定で、艦籍にもそう書かれていました。しかし、1928(昭和3)年に「妙高」の主砲公試をしたところ、砲弾の散布界が広い欠点が発覚します。

 主砲6門の青葉型と比べ、「妙高」は命中率が悪かったのです。原因は、細長い船体の両端に主砲塔を分散配置したため、発射の衝撃で船体がねじれ、射撃精度が悪化したからだとのこと。そのため、高雄型では前後の主砲塔間隔を8.5m短縮しました。

 このことは主砲弾の散布界縮小にあまり効果がなかったものの、主要防御区画が5.2m短縮されたことにより、弾薬庫と火薬庫の舷側装甲を妙高型の傾斜102mmから、傾斜127mmに増やせ、防御力を向上させることに貢献しています。

 また艦橋構造物を大型化し、射撃指揮所を四脚構造に改め、その架台も改良しました。これにより、射撃方位盤の左右振動を妙高型の8mmから、ほぼ0に抑え込むことに成功し、射撃精度の向上に寄与しています。

 主砲も妙高型の200mm砲を203mm砲に変更し、貫通力と射程に優れる九一式徹甲弾を撃てるようにした他、最大仰角も70度に上げて対空射撃をできるようにしました。しかし、同じ砲を搭載した空母「赤城」での主砲対空射撃試験は成績不良で終わったため(イギリスもカウンティ級重巡で同じ失敗あり)、4番艦の「摩耶」では仰角を55度に減らしています。

 なお、対航空機用の高角砲(高射砲)は妙高型と同じ12cm高角砲ですが、設計時に主砲による対空射撃が可能になったと判断されたことから、その数は6門から4門へと減らされています。

 水雷兵装は61cm連装魚雷発射管を4基8門搭載しています。妙高型の6基12門と比べると減少していますが、次発装填装置を搭載したことで次の魚雷を装填できるようになったため、戦力減は少ないと考えられていました。

完成したら1万トン超えちゃった

 高雄型は、ほかにも妙高型と比べて航空兵装が強化されており、水上機射出用のカタパルトを妙高型の1基から2基へと増強、搭載機数も妙高型の2機から3機へと増やしています。

 ほかにも居住区の拡大や通風能力強化により、乗員の居住性も改善されました。また、高雄型は4隻全てに艦隊旗艦としての設備を備えていました。妙高型は4隻中2隻にしか旗艦設備が設置されていなかったことを鑑みると、本型が重要視されていたことが伺えるでしょう。

 ただ、運用するうえでの様々な要望を盛り込んだ結果、艦橋構造物が巨大化し被弾面積が増加するというデメリットも生じています。これについては、イタリアのプリエーゼ造船中将が「日本は要求を取捨選択できないから、このような巨大な艦橋になるのではないか」と、危惧したほどだったとか。

 こうした艦橋構造物の肥大化もあり、高雄型は完成時の基準排水量が1万1350トンと、ワシントン海軍軍縮条約で設けられていた制限1万トンを越えていました。その結果、諸外国からは「高雄型は条約型重巡で全般的に見て最強」としながらも、排水量オーバーを指摘されています。

 ただ、各国の重巡洋艦も、アメリカのポートランド級は1万258トン、ウィチタは1万590トン。ヨーロッパに目を転じると、フランスのシュフラン級は1万1136トン、イタリアのザラ級は1万1680トン、ドイツのアドミラル・ヒッパー級は1万4454トンと、排水量を超過した例が多々ありました。

 なお、イギリスでもケント級は排水量9750トンですが、軍縮条約がまだ有効であった1935(昭和10)年に、舷側装甲の厚さを25mmから114mmへと増やしているため、これにより1万トンを越えていた可能性は否定できません。

就役後6年で大改装

 高雄型重巡洋艦は、完成時こそ優秀と認められていたものの、その後、生まれた最上型軽巡洋艦(後に重巡化)の方がより高性能だったこともあり、就役から6年しか経っていない1938(昭和8)年には早くも「高雄」「愛宕」に近代化改装が施されています。

 高角砲は12.7cm連装砲4基8門に換装、雷装も九二式4連装発射管4基16門に換装され、より高性能な酸素魚雷の使用も可能になるなど、大幅に強化されています。巨大な艦橋も容積比で従来と比べ4分の3に縮小され、被弾面積を減らしています。

 航空兵装もカタパルトと揚降用クレーンの強化、飛行機作業甲板の設置といった改良が行われ、搭載機数も4機に増えました。

 機関は、半数のボイラー(汽缶)に蒸気加熱機を装備し、出力を3000馬力増やした13万3000馬力へと向上させています。ただ、こうした改装によって基準排水量が1万3400トンに増加したことで、浮力を維持するために大型バルジを設置した影響などから、速力は35.5ノット(約65.7km/h)から34.25ノット(約63.4km/h)に低下しています。

 主砲も1931(昭和6)年に試作した、3号20cm砲(20.3cm55口径の長砲身新型砲)の試験結果が良好だったことで、換装が検討されましたが、予算の関係で断念されました。ただ、最新の九八式発砲遅延装置を装備したことで、命中率はやや向上したようです。

太平洋戦争を生き抜いた「高雄」

 大改装は「鳥海」「摩耶」にも行われる予定でしたが、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まった影響で間に合わず、この2艦については酸素魚雷の運用能力と航空艤装の改良という限定的な改装で終わっています。

 なお「摩耶」については、1943(昭和18)年の損傷復旧時に、主砲塔1基を降ろし、そのぶん対空兵装を強化して防空巡洋艦へと変貌を遂げています。具体的には、12.7cm連装高角砲6基12門、25mm機銃66門、13mm機銃36門を備えており、1944(昭和19)年6月に起きたマリアナ沖海戦では、空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」らの護衛に就いて勇戦しました。

 しかし、その半年後に起きたレイテ沖海戦で潜水艦の魚雷を受け、「高雄」が大破、「愛宕」「摩耶」は撃沈されます。「鳥海」も直後のサマール沖海戦で航空攻撃により失われ、高雄型は壊滅しました。

 ただ1隻、沈没を免れた「高雄」は、損傷しながらもシンガポールに到着。修理のためドックに入ったままで搭載する高角砲などを射撃し、来襲したアメリカ軍のB-29大型爆撃機を撃墜するなどの戦果を挙げますが、そのまま終戦を迎えます。

 こうして、戦火を生き抜いた「高雄」でしたが、接収したイギリス海軍の手により、終戦翌年の1946(昭和21)年10月下旬、マラッカ海峡で処分されました。

 高雄型重巡は日米主力艦隊同士の艦隊決戦に向け、夜戦戦力の中核として建造され、同世代重巡で最強の艦型でした。ただ太平洋戦争中では、想定した艦隊決戦は発生せず、搭載魚雷の不備や消極的な戦闘指揮で、結果が出ない戦闘もありました。とはいえ、高雄型各艦とも水上戦闘で戦果を挙げており、建造目的を全うした艦型だったのではないでしょうか。