1945年の今日、旧日本海軍の試作戦闘機「震電」が初飛行しました。敵の爆撃機を迎撃できるよう高速かつ優れた上昇能力を追い求めた結果、エンジンを後ろ向きに搭載し、機首に小翼を取り付けた異形の戦闘機として誕生しました。

異形の前翼機、対B-29の切り札として誕生

 1945(昭和20)年の8月3日は、旧日本海軍の局地戦闘機「震電」が初飛行した日です。局地戦闘機とは、言葉のとおり「局地」すなわち限定されたエリアで用いる戦闘機という意味で、いわゆる迎撃機のことです。

 1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まりましたが、アメリカを始めとした連合軍との戦いが激しくなるにつれ、敵の戦闘機を凌駕できる高性能を持つ新型機として、従来の戦闘機とは異なる形状の飛行機も研究されるようになりました。そのようななか生まれたのが「震電」です。

「震電」の研究開発は1943(昭和18)年から本格化し、同年8月に海軍航空技術廠で前翼機模型の風洞実験を実施、それを基に翌1944(昭和19)年1月末には、実験用小型滑空機を用いた高度約1000mからの滑空試験にも成功しています。

 こうして実機の開発に一定の目途が立ったことで同年2月には試作機の開発が決定、主契約会社として九州飛行機に白羽の矢が立ちました。なお当初、試作機の製作は内々のものでしたが、5月に「十八試局地戦闘機」の名称で正式発注となっています。

 これを受け、九州飛行機は技術者を結集し会社一丸となって製図作業にあたった結果、1944年11月には設計を終わらせました。

 ただ、このように機体開発の方は順調に進んだものの、搭載予定であった「ハ43」エンジンの開発を担当していた三菱重工名古屋工場が、1944(昭和19)年12月から翌1945(昭和20)年1月にかけて断続的にアメリカ軍の爆撃を受けたことで、スケジュール通り進まなくなり、結果、開発は遅延しています。

アメリカでは実機の胴体が、日本では実物大模型が展示

 1945(昭和20)年6月に「震電」の試作1号機が完成、蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)へ機体が運ばれます。翌7月には、設計者である鶴野正敬技術大尉による滑走試験中、機首を上げ過ぎたことにより、機体後部のプロペラ端が地面に接触してしまうという事故を起こしました。なお、このときプロペラを試作2号機用の物へと換装するとともに、以後プロペラが接地しないよう左右の垂直尾翼の下側に小輪を付けるという改修が行われています。

 こうして機体修復を終えた「震電」は同年8月3日、初飛行に成功。続く6日と8日にも試験飛行を実施したものの、エンジン不調が発生したため、予備部品を三菱重工から取り寄せている最中に終戦となり、結局「震電」が空を舞ったのは前出の3回で終わりとなりました。

 なお、終戦後「震電」の試作1号機はアメリカ軍に接収されたのち、10月には調査・研究のためにアメリカ本土に船で送られています。その後、複数のパーツに分解され、アメリカ国立航空宇宙博物館へ収容。長らく眠っていましたが、現在は機首部分のみ開梱のうえ、公開展示されています

 また、福岡県筑前町にある町立大刀洗平和記念館には「震電」の実物大模型も展示されています。ほかにも同館では旧海軍の零式艦上戦闘機(零戦)三二型や、旧陸軍の九七式戦闘機乙型の実機も展示しているため、それらと「震電」を見比べることで機体サイズや構造の違いなどを実感することが可能です。